明の元号と明の元号

1186年、厳州の知事として赴任した。この期間中に『剣南詩稿』20巻を刊行した。任期を終えると中央での職に任じられた。孝宗としてはゆくゆくは陸游を重要なポストに就けるつもりであったらしいが、孝宗が光宗に譲位すると、やはり平生からの主戦論の直言などが災いして、「風月を嘲詠した」というよくわからない理由で罷免された。このとき書屋を「風月軒」と名付けた。のち、寧宗の代に韓侂冑の推薦によって出仕し、実録院同修撰同修国史となり、「孝宗実録」「光宗実録」を編纂した。韓侂冑の人気取り的な主戦論に利用されたとはいえ、推挙されていたことがは批判の元となった。故郷では、晴耕雨読の日々を送った。酒屋で大勢と酒を酌み交わしたり、豊富な知識を生かして薬を作って与えるなど、近隣の庶民と分け隔て無くつきあい、慕われていた。念願の中原回復はかなわぬながらも、素朴で安逸な生活を送り、85歳で世を去った。陸游は詩作について、江西詩派に属する曾幾に師事していたので、若い頃の詩風は典故を多用し修辞を凝らしたものであった。蜀地方での赴任時代には、自然の中で暮らすようになり、また一向に進展しない対金国情勢もあって、単なる修辞主義を離れた気宇壮大かつ憂憤の情を込めた饒舌な詩風となった。そして本格的に故郷で生活するようになると、愛国・憂国の志を詠じることを忘れることはなかったが、繊細な感覚によって生活の中の機微を題材にした詩を作り、多くの詩を残した。

1189年、孝宗が退位してその子・光宗が即位するが、暗愚であったため、1194年の孝宗の死後、趙汝愚と韓侂冑らが協力して光宗を退位させた。光宗の後に寧宗が即位すると、趙汝愚の与党だった朱熹は政治顧問に抜擢された。しかし功労者となった韓侂冑と趙汝愚が対立し、趙汝愚が失脚すると朱熹も罷免されてしまい、わずか40日あまり中央に出仕しただけに終わった。その後の政界では韓侂冑が独裁的な権限を握る。1196年、権力をより強固にするため、韓侂冑らは朱熹の朱子学に反対する一派を抱き込んで「偽学の禁」と呼ばれる弾圧を始めた。朱熹はそれまでの官職を全て剥奪され、著書も全て発禁とされてしまった。そして1200年、そうした不遇の中で朱熹は71歳の生涯を閉じたのである。『論語』、『孟子』、『大学』と『中庸』のいわゆる「四書」に注釈を施した。これは後に科挙の科目となった四書の教科書とされて権威的な書物となった。これ以降、科挙の科目は“四書一経”となり、四書が五経よりも重視されるようになった。

信長の後継を得るとその重臣である前田利家、丹羽長秀、蜂須賀正勝らも臣下に加えるが、彼らとは友人としての関係を保ったとも考えられている。晩年には豊臣政権の職制として五大老、三中老、五奉行、十人衆を設けるが、死後に譜代の家臣は関ヶ原の戦いで武断派と文治派に分かれ戦った。死後、京都東山の阿弥陀ヶ峰に葬られ、豊国大明神として豊国神社に祀られた。しかし大坂の陣で豊臣家が滅亡すると、徳川家康により大明神の号は剥奪された。この時、建物も破却されることになりかけたが、秀吉の正室であった高台院や豊国神社の社僧である神龍院梵舜の嘆願により、外苑部分は破却されるが内苑は残されていた。なお、建造物の一部は片桐且元らによって宝厳寺や都久夫須麻神社等に移築されたともされる。その後三代将軍家光の時代幕府により社領も没収、社殿などは次々と破却、あるいは解体処分とされてしまい、豊国神社の敷地は荒れるがままであったと言う。明治になり日光東照宮の相殿に祀られ、豊国神社は再興された。

17世紀の清代に、金聖嘆は百回本のうち物語が面白い部分は梁山泊に百八人が集う第七十一回までであると判断し、第七十二回以降を切り捨てた上で、第七十一回後半を書き改めて最終回とし、かつ回数を整えるため本来の第一回を前置きとし、第二回以下の回目をそれぞれ一回ずつ繰り上げた七十回本を作り、出版した。遼との戦いを含む後半部分を、女真人による異民族王朝である清が忌避したためとする説もある。清代には七十回本が流行し、中国では20世紀に入るまで水滸伝と言えば七十回本を指した。中華人民共和国成立後、七十回本の体裁にならいつつ、回目を復旧した七十一回本も出版されている。日本では中国と異なって百二十回本が一般的によく読まれ、百回本も読まれるが、七十回本はあまり入っていない。日本へは江戸時代に輸入され、1728年には岡島冠山により一部和訳され普及し19世紀初めには翻訳、翻案が数多く作られ、浮世絵師の歌川国芳や葛飾北斎が読本の挿絵や錦絵に描いた。

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