北宋期の展開と元禄期におきた出来事

小説『三国志演義』の中で、その名前を字で記載されているのは玄徳と孔明のみである。『初学記』巻二十五に引く『語林』では、諸葛亮が白い輿に乗り、葛巾をかぶり羽扇を手に軍を指揮したと描写されているが、『三国志演義』ではさらにイメージがふくらまされ、綸巾を戴き羽扇を手にして四輪車に乗り、鬼神や天候をも操り、敵の意図を全て事前に察知し、天文をもって人の生き死にを知る事が出来るといったほぼ完璧な人物として描写されている。この描写については批判もあり、魯迅などは「人物描写に至ってはすこぶる欠点がある。劉備を温厚な人格者として表現しようとしてむしろ偽善者じみているし、諸葛亮を知恵者として表現しようとしてむしろ化け物じみてしまっている。」と述べている。諸葛亮の事跡に関して、『三国志』と『演義』との主な相違点を挙げる。

全体として主人公格である劉備・諸葛亮ら蜀漢陣営と、悪役である曹操ら魏陣営との対立を主に扱っているため、孫権ら呉陣営の取り上げられ方は相対的に善悪好悪の位置づけが曖昧である。上記の通り『三国志演義』は士大夫の鑑賞に堪える水準に達しており、その用法は通俗小説の域を越えていた。明・清代には兵法書としても読まれており、実際に李自成・洪秀全は兵法の参考にしていたという。清代の順治7年に刊行された満州語版『三国志演義』の巻頭には、大略「作中の善行を鑑とし、悪政を戒とし、国人に興亡の理を学ばせよ」というドルゴンの諭旨が収められた。また順治帝は桃園結義にならって蒙古諸汗と兄弟の盟約を結び、満州を劉備、蒙古を関羽になぞらえた上で、蒙古との関係を保つべく関帝信仰を公認した。『三国志演義』が単に兵書として用いられるに留まらず、王朝の対内・対外政策の根幹に影響を与えていたことがわかる。

口絵や挿絵もあったが、文章中心の読み物であるところから読本と呼ばれた。史実に取材することがあっても基本的にフィクションであり、勧善懲悪思想などを中心に据えた読み物であった。娯楽性も強いが漢語が散りばめられ、会話文主体で平易な滑稽本や草双紙などと比べ文学性の高いものと認識されており、比較的高価である。印刷技術や稿料制度など出版の体制が整っていたこともあり多くの読者を獲得したが、大衆的で廉価な発行部数などは草双紙に及ばない。江戸や大阪の町で上田秋成、曲亭馬琴、山東京伝といった作者が活躍した。当時の中国文学の白話小説から影響を受けて生まれた。古典とは違い同時代の中国語で書かれた白話小説は、唐通事という当時の中国語通訳のための教科書として日本に持ち込まれたが、やがてそれらの小説を実用目的ではなく楽しみとして読むものが現れ、影響を受けた創作や翻訳を行うものが現れた。特に荻生徂徠らに中国語を教えたこともある岡嶋冠山、さらに岡田白駒、都賀庭鐘、沢田一斎らによって出版物や講義の形で一般に俗語小説が広められ、読本が生まれる環境が作られた。そのため初期読本は古典的知識を持つ知識人層によって書かれた。白話小説からの翻案が行われ、さらに18世紀の後半には単なる翻案に留まらない『雨月物語』などの代表作が書かれ初期読本が栄えた。

翌年には、義元からの偏諱である「元」の字を返上して元康から家康と名を改めた。西三河を平定しかけた頃、三河一向一揆が勃発するも、苦心の末にこれを鎮圧した。こうして岡崎周辺の不安要素を取り払うと、対今川氏の戦略を推し進めた。東三河の戸田氏や西郷氏といった土豪を抱き込みながらも、軍勢を東へ進めて鵜殿氏のような敵対勢力を排除していった。三河国への対応に遅れる今川氏との間で宝飯郡を主戦場とした攻防戦を繰り広げた後、永禄9年までには東三河・奥三河を平定し、三河国を統一した。この年、朝廷から従五位下、三河守の叙任を受け、徳川に改姓した。この改姓に伴い、新田氏支流得川氏系統の清和源氏であることも公認させた。永禄11年には、今川氏真を駿府から追放した武田信玄と手を結んだ。同年末からは、今川領であった遠江国に侵攻し、曳馬城を攻め落とした。遠江国で越年したまま軍を退かずに、駿府から逃れた氏真を匿っている掛川城を攻囲。籠城戦の末に開城勧告を呼びかけて氏真を降し、遠江国を支配下に置いた。

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