本能寺の変と思想・宗教

乱の翌月、上皇の軍によって居住していた中宮院を包囲され、そこで上皇より「仲麻呂と関係が深かったこと」を理由に廃位を宣告され、親王の待遇をもって淡路国に流される。だが、淡路の淳仁天皇のもとに通う官人らも多くおり、また都でも天皇の復帰をはかる勢力もあって、このような政治動向に危機感をもった上皇は、翌天平神護元年2月に現地の国守である佐伯助らに警戒の強化を命じている。この年の10月、逃亡を図るが捕まり、翌日に院中で亡くなった。公式には病死と伝えられているが、実際は逃亡の時に危害を加えられた結果であった可能性が高い。淳仁天皇の御陵は淡路国三原郡に造営された。宝亀3年に、光仁天皇は僧侶60人を派遣し、斎を設けて、その魂を鎮めた。

しかし、元の直轄支配地域の地方では、モンゴルの王族や貴族は自身の遊牧民を率い、皇帝と同じように季節移動を行う直轄所領を持ち、それぞれの所領はチンギス以来の権利によって貴族が所有する財産とみなされていたため、皇帝の直接支配を受けず、まったくの自治に委ねられていた。しかもひとつひとつの位下・投下は中国内地の定住地帯にモザイク状にちりばめられた領民・領地をもっており、皇帝の直接所有する領土・領民は、元の全領域から王族・貴族の位下領・投下領を除いた部分にすぎなかった。定住地帯においては、チンギス時代以来数十年にわたる征服の過程で形成された王族・貴族の投下領が入り乱れ、領土・領民の所有関係は複雑だった。王族・貴族は位下領・投下領に自らダルガチを任命したので、彼らは領主からの代官として働き、皇帝の直接の支配権が及ばないその支配がその位下領・投下領の含まれる地域全体を統括する行省の支配権力と並存していた。元に服属したかつての独立王国である天山ウイグル王国や高麗は、所属する行省のモンゴル人たちによる掣肘は受けたものの、個々の従来からの国制を保ったまま自治を認められた。その王族はモンゴルの王族・貴族に準じる扱いを受け、クビライ家の皇女と婚姻を結んだ。特に高麗の場合、忠宣王以降の国王はモンゴル皇女を母とし、即位以前は元の宮廷に長らく滞在して皇帝の側近に仕えるなど、ほとんどモンゴル貴族のようになっていったほどであった。このように元の地方制度は、一見中央集権的な中書省・行省と路・州・県の階層制と、きわめて分権的、封建的である皇帝直轄領・投下領の混在が交差していたが、元の支配に服しながらこれらとは異なる制度に置かれる例外として、チベットがあった。チベットは、各地で領域支配を行う土着の貴族たちが10以上の万戸府に分けられ、土司として掌握され、チベット仏教のサキャ派の教主を長官とする元の仏教教団統制機関、宣政院によって統括されていた。

引用されている文献は、魏・呉・蜀漢の順に多い。ただし、本文の分量に対する割合では、魏・蜀漢・呉の順となる。陳寿に対しては敬意を以て接しており、また蜀漢の特に諸葛亮にも好意的な態度が目立つ。『三国志演義』で採用された蜀漢についてのエピソードは、多くを裴注に拠っている。しかし、後世盛んになった講談や三国志演義などの蜀漢正統論による創作では、陳寿への敬意は引き継がれなかった。420年に劉裕が、東晋の恭帝から禅譲を受けて、王朝を開いた。東晋以来、貴族勢力が強かったものの、貴族勢力との妥協のもと政治を行なった。文帝の治世は元嘉の治と呼ばれ、国政は安定したが、文帝の治世の末期には北魏の侵攻に苦しむようになった。

また関羽が斬首された後、その霊が玉泉山の普浄という僧の前に、同じくして死んだ関平と周倉、それに家臣の霊と共に現れ、呉や呂蒙に対する恨みを綴るが普浄の説得により成仏する、という話もある。普浄という人物は話によっては、関羽を以前助けた人物だとも、関羽が死んでから百年後にいた人物だとも言われており、存在した年代がはっきりしておらず、フィクションなのか実在したのかさえもわからない。六朝時代の道教における、神格化された人間の一覧『真霊位業図』には曹操・劉備はいるが、関羽はいない。六朝時代ではまだ関羽の評価は固まっていなかった証拠といえる。北宋期『漢天師世家』で張天師が関羽を呼び出す話があり、この頃には人間に呼び出される程度の扱いであった。明初に書かれたとされる『道法会元』には「関元帥」と記されており、この時点でかなりの地位の向上がある。その後に「協天大帝関聖帝君」として神格化された。神格化されたのは仏教よりも後なのは確かである。その仏教では唐代の『荊南節度使江陵尹裴公重修玉泉関廟記』に、隋代の智顗禅師の元に関羽が現れて、僧坊を提供し守護神となったとする話が載り、南宋期に書かれた『仏祖統紀』には智顗禅師の元に関羽の霊が訪れ、仏法に帰依したいと請われた禅師が煬帝に奏して、関羽を「伽藍神」に封じたとしている。現在では「関帝菩薩」とも呼ばれている。

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