百八星は天に帰すとNHK
例えば魏の曹髦が殺された事件では、事件に西晋を建国した司馬氏が関わっているため、陳寿は記述をぼかしている。裴松之は習鑿歯の『漢晋春秋』に記録された殺害の顛末が一番まとまった内容であるとして、注の筆頭に引用し、続いて異説を挙げている。読者に史料の比較検討を促しているのである。また、裴松之は自説に反する文献も注に引用しているので、裴説の再検討もできるのである。引用されている文献は、魏・呉・蜀漢の順に多い。ただし、本文の分量に対する割合では、魏・蜀漢・呉の順となる。陳寿に対しては敬意を以て接しており、また蜀漢の特に諸葛亮にも好意的な態度が目立つ。『三国志演義』で採用された蜀漢についてのエピソードは、多くを裴注に拠っている。しかし、後世盛んになった講談や三国志演義などの蜀漢正統論による創作では、陳寿への敬意は引き継がれなかった。420年に劉裕が、東晋の恭帝から禅譲を受けて、王朝を開いた。
こうして、『三国志演義』や『吉川三国志』、横山光輝の『三国志』など、三国時代を題材にした創作物と、『三国志』『後漢書』『晋書』などの史書と、両方の記述を元にした設定に取り入れられることとなった。さらに同じコーエーの『真・三國無双』シリーズの発売によって、コーエー自身が作ったイメージの流入も起きている。なお、魏の武将夏侯惇の読みが、『三國志I』では「かこうとん」、『三國志II』では「かこうじゅん」だったが、後者は「吉川三国志」のルビ表記であり、正式な字音は前者であるため、『三國志III』以降は前者で統一された。ちなみに、近作では年齢を重ねるごとにより、一部の有名人物の顔グラフィックが、ある年齢から老化する様になっている。従来、『演義』で初登場時に既に「老将」扱いであった黄忠などに効果は顕著で、壮年期の姿を拝むことができるほか、隻眼になる前の夏侯惇のグラフィックも存在する。
更には明帝の後を継いだ蕭宝巻は極端な側近政治を行って、明帝時代の重臣たちを殺してまわり、政治は乱れた。これに対する反乱が何度か起き、500年に起きた蕭衍が挙兵し、東昏侯の弟・蕭宝融を擁立して建康に向かって進軍し、翌年に東昏侯は部下に殺された。建康に入った蕭衍は翌502年に和帝より禅譲を受けて梁を建国する。武帝は斉の創始者・蕭道成の曽祖父の兄弟の子孫と言う斉の遠い宗族であり、斉とは同姓ではあったが、王朝を引き継がず革命の形を取った。武帝は范雲や沈約などの新興の貴族を登用して優秀な人材を集めた。また旧来の官制を改革し、官位の上下を9品から18班に改めている。他にも租税の軽減を行い、それまで使われていた西晋時代以来の泰始律令に代わって、新しい梁律・梁令を制定した。また文化にも理解を示し、この時代は南朝の中でも文化の最盛期と言われている。特に武帝の長子である昭明太子によって編纂された『文選』はこの時代のみならず現代まで名著して読み継がれている。このように武帝の治世は革命の名にふさわしいものであった。
仏教は、はじめに保護を獲得したのは禅宗で、耶律楚材など宮廷に仕える在家信者を通じてモンゴルの信任を受けた。代表的な僧に杭州の中峰明本がいる。しかし、やがてチベット仏教が勢力を拡大し、モンゴル貴族の間にチベット仏教が大いに広まる。クビライはサキャ派の教主パクパに対し、1260年に「国師」、1269年に「帝師」の称号を授け、元領内の全仏教教団に対する統制権を認た。パクパの一族が叔父から甥へと継承したサキャ派の教主は代々国師・帝師として重用され、専属の官庁として宣政院を与えられて、宗教行政とチベットの施政を統括した。もっとも、次第にこれに耽溺するモンゴル王侯が増え、ラマに過大な特権を与えたり、宮廷に篭もって政治をかえりみなくなったり、宗教儀礼のために過大な出費を行ったことは元の衰亡の要因として古くからよくあげられる点のひとつである。また、国際交易の隆盛にともなって海と陸の両方からイスラム教が流入し、泉州などの沿岸部や雲南省などの内陸に大規模なムスリム共同体があった。現在の北京にある中国でも最古級のモスクである牛街清真寺はこの当時、中都城内にあり、モンゴル帝国、大元ウルス時代に大きく敷地を拡大したモスクのひとつである。もうひとつの大宗教はキリスト教で、ケレイト王国や陰山山脈方面のオングト王国などモンゴル高原のいくつかの部族で信仰されていたネストリウス派のキリスト教は元のもとでも依然として信者が多く、またローマ教皇の派遣した宣教師が大都に常設の教会を開いて布教を行っていた。ところで、科挙の中断などの点をあげて、しばしば元は儒教を排斥したのだと言われるが、漢文化にはじめて理解を示したとされるクビライよりはるか以前のオゴデイの時代より、モンゴル帝国は孔子や孟子の子孫の保護、曲阜の孔子廟の再建などを行うなど、宗教としての儒教はむしろ保護の対象とされていたことは注意されるべきである。既に述べた「儒戸」も、儒教の宗教指導者階層として捉えられていた可能性が高い。儒教の排斥とは、現実には、モンゴルの伝統を重んじる元が、従来の中国王朝に比べ、儒学の影響力をあまり受ける必要がなかったということである。