北宋期の展開と行政・治安関連
その後太尉に、ついで相国となり、朝廷でゆっくり歩くことと帯剣を許された。位人臣を極めた董卓は暴虐の限りを尽くし、洛陽の富豪を襲って金品を奪ったり、村祭りに参加していた農民を皆殺しにしたり、色香に飢えた董卓の蛮兵が毎夜のごとく女官を凌辱したり悪道非道を重ねた。 意外な一面として兼ねてより仲の悪かった皇甫嵩に対しては一度は処刑するつもりで召還し、逮捕投獄するものの、当時交流のあった皇甫嵩の息子が取り成すと免罪し、以降は壇上に上る自分に皇甫嵩一人だけが頭を下げないという反抗的な態度をとられても「義真、まだかな?」と促し、彼も素直に「これは失礼した。」と謝罪をした事で許している。董卓の専横に反発した袁紹・袁術などの有力者は、橋瑁の呼びかけで初平元年に反董卓連合軍を組織した。董卓は弘農王を毒殺し、防衛に不利な洛陽を避け長安に強制的に遷都し、洛陽の歴代皇帝の墓を暴いて財宝を手に入れ、宮殿・民家を焼きはらった。その後も董卓は洛陽に駐屯し、反董卓連合軍を迎え撃った。董卓は河陽津で陽動作戦を用いて王匡を大いに破った。また徐栄を派遣して、滎陽県汴水で曹操・鮑信を大いに破り、また梁県で孫堅を破った。しかし、その後、董卓軍は孫堅との戦いに敗れ、洛陽の町を焼き払い、長安に撤退した。しかし董卓の長安撤退後に劉岱と橋瑁が反目し、橋瑁が殺害されたり糧秣が尽きるなどして連合軍は自然解散となり、有力者は各自の勢力拡大に走った。董卓は長安でも暴政を布き、銅貨の五銖銭を改鋳して貨幣価値を落としたため、インフレーションを招いた。長安近くの郿に長安城と同じ高さの城壁の城塞を築き、30年分の食糧を蓄えていたという。董卓の暴虐ぶりはあいかわらずで、董卓に逆らった捕虜は舌を抜かれ、目をえぐられ、熱湯の煮えた大鍋で苦しみながら殺された。捕虜の泣き叫ぶ声は天にこだましたが、董卓はそれをみて笑い、平然と酒を飲んでいたという。
秀吉が織田家の中国遠征総司令官に任じられると、重治は秀吉に従って中国遠征に参加する。天正6年に宇喜多氏の備前八幡山城を調略によって落城させ、信長に賞賛された。同年、信長に対して謀反を起こした荒木村重に対して、秀吉幕僚の黒田孝高が有岡城へ赴き帰服を呼びかけるが、城内で捕縛されたため、信長は孝高の嫡男・松寿丸の殺害を秀吉に命じた。しかし重治は秀吉に偽の首を進呈させ、松寿丸の命を助けたのである。この後、助け出された孝高はこのことを非常に感謝し、竹中家の家紋を貰い受けている。天正7年4月、播磨三木城の包囲中に病に倒れた。秀吉は重治の病状を心配して京都で療養させたが、重治はすでに自らの死期を悟り、武士ならば戦場で死にたいと秀吉に懇願して6月13日に死去。享年36。死因は肺の病気とされる。墓所は陣地のあった兵庫県三木市平井山観光ぶどう園内にある。他にも三木市志染町の栄運寺、岐阜県垂井町の禅幢寺、滋賀県能登川町の浄土寺などにも墓所がある。
天正10年5月、駿河拝領の礼のため、降伏した穴山信君とともに信長の居城・安土城を訪れた。6月2日、堺を遊覧中に京で本能寺の変が起こった。このときの家康の供は小姓衆など少人数であったため極めて危険な状態となり、一時は狼狽して信長の後を追おうとするほどであった。しかし本多忠勝に説得されて翻意し、服部半蔵の進言を受け、伊賀国の険しい山道を越え加太越を経て伊勢国から海路で三河国に辛うじて戻った。その後、家康は明智光秀を討つために軍勢を集めて尾張国にまで進軍したが、このとき中国地方から帰還した羽柴秀吉によって光秀がすでに討たれたことを知った。
また、西晋の司馬炎は「自分の補佐にしていれば今日の苦労はなかったであろう」と宰相としての諸葛亮を賞賛している。一方、北魏の崔浩は「曹氏と天下を争う事もできず劉璋から国を奪い辺境で皇帝を僭称させた」と極めて辛口の評を述べている。劉璋が支配していた益州を奪ったことに関しては、蘇軾は「劉璋をだまし討ちにし、荊州に連れ去った事で天下の声望を失った。これでは曹操と変わる所が無い。劉備と曹操では才能・兵力・領土に大きな差があり、忠信の心のみが勝っていた。これを失ってから北伐の大義と唱えても上手く行くはずが無い」と述べている。これに対し、明代の学者・王世貞は、劉璋を討つ事を劉備に勧めたのは諸葛亮ではなく龐統・法正である事、また劉焉は漢朝からの独立を企図した叛臣とみるべき存在であり、子たる劉璋を討つ事は正当化される事などを理由として反論している。