清の皇帝と北宋期の展開
宋代では茶は片茶と散茶に分かれる。片茶は茶葉をすりつぶして固形にしたもののこと、散茶は現在一般的な葉で入れる茶のこと。宮廷で使用する最高級の片茶を「龍鳳茶」といい、これに付いては詳しい製法が残っている。散茶に付いては製法が伝わらない。なお散茶の一種として「末散茶・屑茶・末茶」というのがあり、これは葉茶を粉状にした今で言う抹茶のことであると思われる。宮廷で使用する茶は建州にある北苑と呼ばれる宮廷御用達の茶園で作られる。その量は宋初の太宗の太平興国の初めにはわずか50片であったのが哲宗の元符年間には1万8千となり、徽宗の宣和年間には4万7千になっている。なお唐代には3千6百串で、茶の使用量が大幅に増えたことがわかる。以上で完成である。こうして作られた龍鳳茶は皇帝や皇后たちの食事に供され、または臣下たちに下賜されて消費される。なお以上は皇帝のための最高級茶の話なので庶民が飲む茶は手間も金ももっと節約して作られていたと思われる。事実、後の明の太祖により「民力を疲弊させる。」として龍鳳茶は廃止されている。
『演義』では、蜀を奪ったあと、義兄弟である関羽を魏呉連合軍に殺され、また部下に張飛を殺され呉に逃亡したことにより怒り狂い、義兄弟の敵討ちを大義名分として呉に向かう。その際に黄忠を老人扱いしたり、自軍が75万という大軍勢な上に呉軍の士気が低いのを見て傲慢になっていた。そこを突いた陸遜により大敗し白帝城へ落ち延び、まもなく後悔の念にさいなまれ病気になる。病の床で見た夢に現れた関羽と張飛から「遠くなく兄弟三人がまた集うことになるでしょう」と言われ、自らの死期を悟る。そして諸葛亮を呼び寄せ、後のことを託して世を去る。横山光輝の三国志では、臨終の際に目の前に関羽と張飛の幻を見た様子で、「二人が来ている、私も後を追う」と言い残して死亡した。なお、690年に武則天によって唐王朝は廃されて武周王朝が建てられたが、705年に武則天が失脚して唐が復活したことにより、この時代も唐の歴史に含めて叙述されることが通例である。日本では唐の滅亡後も唐、唐土の語は中国を指す語として用いられた。詳しくは中国を参照のこと。
塩の生産地として最大の物は旧南唐の領域であった両淮地方でここが生産の約半分を占める。それに次ぐのが解州で二割、以下両浙・四川・河東と続く。茶では江南地方が最も多く四割ほどをここが占め、これに次ぐのが淮南の三割強、以下荊南・両浙と続く。生産を行う者は解州では周辺の州に毎年交代で戸ごとに二人の壮丁を出させて行わせる。それぞれ畦戸・畦夫と呼ばれ、畦夫には毎日米2升・畦戸は年銭40貫と他の役免除が与えられる。他の地域では特定の戸が塩の生産に専門的に従事する。両淮や両浙ではこれを亭戸といい、四川では井戸、茶においては園戸という。亭戸は生産の初期費用として塩本銭(茶本銭)を貸し付けられ、出来た塩を納入することでそれを返却することになっていた。しかし塩本銭を私する官吏たちによりその原則は早々に崩れ、初期費用は身銭を切り、納入した後で初めて塩本銭を支給されることが多く、その額も過小な額しか支給されないことが多かった。そのため逃亡する亭戸も多くなり、私塩が増えることになった。生産された塩・茶を流通・販売するにおいては全てを官営で行う場合と、ある程度民間商人の手にゆだねる方式があった。官営の場合は官吏による着服などがあり、その度に値段は上がり、質は下がるという状態であった。私営の場合は密売の横行を招くという欠点があったが、質・価格ともに官営を圧倒するために宋代を通じて概ね私営の時が多かった。北方の戦線を維持するために食糧や馬の食べる秣などが大量に必要となる。最初はこの輸送の労力として民衆たちを徴用し行わせていたが、この負担が非常に重く民衆を苦しめたので専売制を利用した方策が採られた。これを三税法という。専売品を商いたい商人は北方へと糧秣を運び込み、その量に応じて交引という引換券を得る。これを産地に持って行き、現物と交換してこれを商う。
編纂は、前半部と後半部で異なる事情を持つ。前半ははじめ、文武天皇元年から天平宝字元年、孝謙天皇の治世までを扱う30巻の曹案として作られた。光仁天皇が、修正を石川名足、淡海三船、当麻永嗣に命じたが、彼らは天平宝字元年紀を紛失した上、未遂に終わった。桓武天皇の命により編纂を菅野真道、秋篠安人、中科巨都雄が引継ぎ、全20巻とした。後半は当初、天平宝字2年からおそらく宝亀8年、淳仁天皇から光仁天皇までを扱うものとして、桓武天皇の命で編纂された。石川名足、上毛野大川が詔によって編集した20巻を、藤原継縄、菅野真道、秋篠安人が14巻に縮め、延暦13年にいったん完成した。菅野真道、秋篠安人、中科巨都雄は、さらに6巻、すなわち桓武天皇の治世のうち延暦10年までを加え、全20巻とした。