都市の外観と明の皇帝
2年後に広忠は死去した。今川義元は織田信秀の庶長子・織田信広、安祥城を太原雪斎に攻められ生け捕りにされている)との人質交換によって竹千代を取り戻す。しかし竹千代は駿府に移され、岡崎城は今川氏から派遣された城代により支配された。墓参りのためと称して岡崎城に帰参した際には、本丸には今川氏の城代が置かれていたため入れず、二の丸に入った。このとき、鳥居忠吉から松平氏の御家人が今川氏の先鋒、事実上の捨石とされている事情を聞く。また、忠吉が今川氏に内密で備蓄していた武具・兵糧・金銭を見せられ、家康は感涙したという。古老の御家人は、祖父・松平清康によく似ていると感嘆したという。駿府の今川氏の下で元服し、今川義元から偏諱を賜って次郎三郎元信と名乗り、今川義元の姪で関口親永の娘・瀬名を娶った。名は後に祖父・松平清康の偏諱をもらって蔵人佐元康と改めている。永禄元年には織田氏に寝返った寺部城主・鈴木日向守を松平重吉らとともに攻め、これが初陣となった。
1967年『阿片戦争』などから中国の歴史を題材にした作品を多く書き、日本における「中国歴史小説」ジャンルを確立して、多くの読者を持っている。作風は常に中国の歴史書を元にしており、非常にマイナーな野史の類も参考にしている。日本と中国の交流や、中国における仏教、イスラム教、キリスト教なども取り上げている。彼以後、宮城谷昌光、酒見賢一、伴野朗、塚本青史など「中国歴史小説」を書く作家が続々と登場したことから、田中芳樹はこれを「陳舜臣山脈」と表現している。琉球史を扱った『琉球の風』は1993年NHK大河ドラマ原作となる。『中国任侠伝』『唐代伝奇』など、中国古典を翻案した物語作品も多い。また小説の他に『中国の歴史』をはじめとする一般向けの中国史も多数執筆している。中国における仏教、イスラム教、キリスト教などにも言及したものになっている。現在、和辻哲郎文化賞の選考委員を務めている。
中国には諸葛亮の子孫が集まったとされる諸葛八卦村が浙江省蘭渓市諸葛鎮にあり、住民の多くの姓が「諸葛」となっている。近年になって諸葛亮の家系図が見つかるが、諸葛亮自身も1800年も前の人物であるので、実際に彼らが諸葛亮の子孫なのかどうかは家系図以外に実証する資料がない。諸葛亮が伝来させたという文化をよく守り、諸葛八卦村は中国から文化財として指定され観光地としても有名である。なお、東京ガールズコレクションにも出演歴がある、諸葛梓岐は諸葛亮63代目の子孫であるという。ちなみに彼女の祖母は日本人とのこと。張澍『諸葛忠武侯文集』によれば、諸葛質という息子がおり、また諸葛懐という息子・諸葛果という娘がいたとされる。 諸葛果は成都近くの道観で修行して、ついに仙人となって昇天したという。なお、「『襄陽記』に息子の諸葛懐、娘の諸葛果がいた」とする記述が見られる事があるが、『襄陽記』の中にはそのような記述はない。佐賀県唐津市生まれの幼少時代を九州・佐賀県で過ごす。実家は曾祖父の代から、唐津市で菓子屋を経営。父親は外国航路の船長だったため、会えるのは船が帰港する時だけ。その都度、横浜に会いに出かけていた。小学校5年の時に、神奈川県川崎市に転居。芝学園を経て、中央大学法学部法律学科入学。学生運動華やかなりし時代であり、全共闘運動に没入。
都市全体の大きさとしては少し小さいだけであったが、長安の巨大な宮城に比べて宋代のそれはきわめてこじんまりとしていた。そのため宮城内部では必要な官庁が全て収めきれず、外側にあふれ出していた。更にその外側の官庁の中には民間からの借家もあったという。宮城の周りには自然官僚たちが住みたがり、一等地を形成する。宮殿はもちろん各官庁・官僚たちの広壮な屋敷などこの周辺は巨大な建物が立ち並ぶ壮観なものとなったであろう。宋の都市の治安はどのようにして維持されていたのか。坊制がある方が治安という面では都合がいいのは言うまでも無い。開封では各所に禁軍の詰め所が作られており、これが治安に当たった。夜の三更から五更までは城門が閉じられ、かつ場内でも外出禁止となっていた。夜間はが町の各所を見回り、もし外出者がいたらこれを注意していた。つまり坊制と違って見つからなければ夜間外出は可能であった。