劉備時代と人々の生活

特に弥生時代や古墳時代を通じて、玄界灘沿岸は、アジア大陸との窓口という交通の要衝であった。そのため、畿内を地盤とするヤマト政権が外交や朝鮮半島への軍事行動の要衝として、出先機関を設置することになった。『魏志倭人伝』に見られる「一大率」は別としても、などの記述がその証拠と考えられている。

巻末には補遺として、趙翼が『御批歴代通鑑輯覧』の編纂に参加した時の、遼代・金代・元代の人名・地名・官職名などの漢訳・訂正の記録を収録している。なお、日本では1930年に国民文庫刊行会から『続国訳漢文大成』経子史部19・20巻として日本語訳版が刊行され、また汲古書院から和刻本の影印が出版されているが、今日では入手困難である。各巻の対象とする正史は以下の通り。

劉備は劉巴の提案に従い、五銖銭100枚の価値の貨幣を作り、貨幣制度を整備した。益州は鉱物資源が豊富で塩を産出したため、劉備は塩と鉄の専売による利益を計り塩府校尉を設置し、塩と鉄の専売により国庫の収入を大幅に増加させた。王連は司塩校尉として多大な功績を挙げた。この時代の前後に起きた中国大陸の人口の激減は、後の時代に大きな影響を与えた。

范曄は字は蔚宗と言い、幼い頃から学問に長じ、経書に通じて文章・音楽を良くしたという。宋の創始者・劉裕に仕えて尚書吏部郎となったが、左遷されて宣城太守になり、在任中の432年、『後漢書』を著した。ただし范曄が執筆したのは本紀と列伝のみである。志については、范曄が後に文帝の弟、劉義康擁立の事件に関ったことで処刑されたので書かれていない。後に南朝梁の劉昭は、范曄の『後漢書』に、西晋の司馬彪が著した『続漢書』の志の部分を合わせ注を付けた。このため現在伝わるのは、後述の李賢注と劉昭注の『続漢書』の志を合刻した北宋時代の版本に元づくものである。『後漢書』の成立は既述の通り、432年と後漢滅亡から200年以上が経ってからのことであり、年代的には後のことを記述している『三国志』の方が先に成立していた。その200年余りの間に後漢についての歴史書を数多くの史家が著している。後漢がまだ存続していた時から書かれた同時代史書である『東観漢記』、東晋の袁宏の『後漢紀』など。その他にも数多くの史書が存在していて、これを八家後漢書と呼んでいる。范曄は『東観漢記』、『後漢紀』をベースにこれらの書物あるいは『三国志』を参照しながら、『後漢書』を著した。がしかし八家後漢書はほとんど現存しておらず、『七家後漢書』などのこれらの書物から引用した書物から集めた一部分のみ見ることが出来るがあり、袁宏の『後漢紀』はほぼ完全な形で現存している)。

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