派生作品と全般・通史
曳き山の山車の中には非常に凝ったからくりを持つものもあり、また大きさも普通の神輿サイズからその10倍以上の大きさのものまで様々である。中でも、石川県七尾市の青柏祭の曳山は重量約20トンであり、日本最大とされる。大きな物が生まれた理由として、引くという形式から巨大なものが運行可能であるということ、依り代としてより目立つ背の高いものが用いられた名残、氏子同士の風流としての競い合いの結果などがあげられる。台車の形状は地域や地区によって、車輪が台車の内についているものや外についているもの、車輪が木製のものや金属製のもの、車輪の大きさ、台車本体の木材の組み方などの違いがあり、数多くの種類がある。車輪の数としては四輪が一般的であり、それに補助の車輪がついているものもある。ほかには滋賀県大津市の大津祭での曳山や三重県北部の石取祭に使われる山車が三輪であり、静岡県森町から磐田市にかけての遠州中東部で引き回される二輪屋台、浜崎祇園山笠のように六輪あるものもある。また、それに伴って運行方法、運行形態も異なるものになっている。小城祇園においては、旧来は車輪がついていない山の下に丸太を次々に敷き挽いて運行するという珍しいものだったが、現在は普通に車輪のついた曳き山となっている。
215年、孫権と領土の事について揉め、荊州の南東の2郡を孫権に割譲した。219年、劉備は漢中を守備している夏侯淵を討ち取り、曹操から漢中郡を奪って漢中王になった。この時、劉備は益州のほとんど全部と荊州の半分を領有し、孫権以上の大勢力であった。だが、劉備軍の関羽が曹操領に侵攻している時、曹操と同盟を結んだ孫権に荊州を攻撃され失い、関羽が捕らえられ処刑された。221年、劉備は蜀の皇帝となった。また、諸葛亮らに蜀の法律である蜀科を制定させ、法制度を充実させた。さらに劉巴の提案に従い、新しい貨幣を作り、貨幣制度を整備した。益州は鉱物資源が豊富で塩を産出したため、劉備は塩と鉄の専売による利益を計り塩府校尉を設置し、塩と鉄の専売により国庫の収入を大幅に増加させた。
撤退後、諸葛亮は馬謖を処刑した。諸葛亮は自分自身も三階級降格して丞相から右将軍になったが、蜀を運営していける人材は他におらず、引き続き丞相の職務を執行した。同年冬、諸葛亮は再び北伐を決行した。この時に上奏したとされるのが『後出師表』であるが、これは偽作説が有力である。二度目の北伐は曹真に作戦を先読みされて上手く行かず、食糧不足により撤退した。撤退時に追撃してきた王双を討ち取った。更に翌年春、第三次の北伐を決行する。武将の陳式に武都・陰平の両郡を攻撃させた。これに対して魏将郭淮が救援に向かったが、諸葛亮自身が出撃して彼の退路を断とうとしたので撤退した。陳式は無事に武都・陰平の二郡を平定した。この功績により、再び丞相の地位に復帰する。
当初、銅銭・銀との兌換を前提としていた紙幣は次第に不換紙幣へと変化、次第にその信用を落としていく。更に金・モンゴルとの戦いが激化していく中で財政赤字を埋めるために紙幣が乱発され、1246年には発行高が6億5千万という数字になった。これによりハイパーインフレが起こり、この時期には紙幣の価値は暴落していた。一方で銀の価値はここまで激しくは暴落せず、銅銭に対してある程度の価値を保ち続けた。後の明代に中国は銀本位制へと移行するが、その芽吹きはこの時代にあったといえるだろう。唐宋変革期には社会で銅銭の需要が大きく高まったが、それ故に銅銭の深刻な不足を呈した。これに対して後周では銅の仏像を鋳潰して銅銭に変え、また南方の十国では後蜀で鉄銭、閩などで鉛銭の鋳造が行われた。