衰退への道と少女向け
赤壁の戦いに於いて、前述の通り諸葛亮はあまり目立った事はしていないが、『演義』に於いては重要な役割を演じている。赤壁以後の荊州争奪戦に於いて、周瑜は曹操の残党軍を攻めてこれを打ち破るが、諸葛亮はこの隙を突いて曹操軍の城を占領し、諸葛亮に先んじられた事で怒った周瑜は持病が悪化する。その後、周瑜は蜀を取るからと偽って荊州に入り、隙を突いて荊州を占領しようと図ったが、全て諸葛亮に看破され、再び怒った周瑜は「既生瑜、何生亮!?」と叫び、そのまま持病が悪化して死去したとなっているが、これらも『三国志』本伝にはない。北伐で馬謖の失策により蜀軍が総崩れで敗北し、魏軍の追っ手の司馬懿らを目の前に諸葛亮自らが城壁の上で琴を弾く「空城の計」を使い、城壁の裏に大軍がいると勘違いした司馬懿が諸葛亮を恐れて撤退した。これも『演義』の創作である。
天正17年、側室の淀殿との間に鶴松が産まれ、後継者に指名する。同年、後北条氏の家臣・猪俣邦憲が真田昌幸家臣・鈴木重則が守る上野国名胡桃城を奪取したのをきっかけとして、秀吉は天正18年に関東に遠征、後北条氏の本拠小田原城を包囲した。小田原城は上杉謙信や武田信玄も落とせなかった堅城である。しかし、季節的な理由で兵を引く可能性のない包囲軍の前では無力であった。三ヶ月の篭城戦の後に北条氏政・北条氏直父子は降伏した。北条氏政・北条氏照は切腹し、氏直は紀伊の高野山に追放された。小田原城を包囲中に、伊達政宗ら東北の大名も秀吉に恭順の意を示した。これによって、名実ともに秀吉の天下統一事業が完遂された。後北条氏を下し天下を統一することで秀吉は戦国の世を終わらせたが、一方で臣従させた伊達氏のように、戦争を行っていない諸大名は軍事力を温存することができた。これらの有力諸大名の処遇が、豊臣政権の課題となった。
しかし広大な中国では拡大と連結にも限度があり、ある地域の大経済圏と他の地域の大経済圏に大きな断絶があった。北宋における大経済圏は大まかに言えば、首都・開封を中心とする華北の経済圏「北商」・豊かな南の各地域をひとまとめにした「南商」・そして独特の産業・経済を持つ四川地方の「蜀商」の三つである。この三地域の間には長江と険しい山岳という大きな地理上の障害があり、この間に前述のような連結は期待し得なかった。各商業圏の間で物の値段が違うのはもちろん度量衡や商慣習まで著しく異なっていた。これら商業圏の間をつなぐ存在が「客商」である。客商は「他の地域の商人」の意で、対して地元の商人は「座商」という。商業圏の間で商品の値や度量衡が違うので、客商はこれを利用して利益を上げた。しかし前述の通り商慣習が異なり、また伝のない状態では売り手・買い手を見つけることも難しい。これを補うのが邸店および牙人である。
1958年の売春防止法の施行により、赤線は廃止され、吉原は文字通り火の消えたような町になった。店は連れ込み旅館や下宿屋、トルコ風呂などに転業していったが、やがてトルコ風呂が全盛期を迎えると、吉原=トルコのイメージが定着していった。トルコ風呂は1966年の風営法改正により、個室付き特殊浴場となった。1948年に施行された「風俗営業取締法」は、1984年に公布された改正法により、大幅に内容が改正された「風俗営業等の規制及び業務の適正化等に関する法律」となり、ここにおいて性風俗営業の営業地域が大幅に制限されるに至った。特に個室付き浴場、個室マッサージ、モーテル類等は事実上人の活動する区域においては営業が不可能となったが、同法律を受けて東京都が施行した「風俗営業等の規制及び業務の適正化等に関する法律施行条例」においては、吉原の実情などを考慮し、「特例地域」として、現行の建物を使用する限りは営業を継続出来ることとなった。従って新規にソープランドビルを建設して営業することは不可能であるが、現行の建物を改装等して継続使用する限りはソープランドを経営することが出来る。かつて、都内では「新宿区歌舞伎町の一部」及び「豊島区北池袋の一部」にも同様の特例措置が執られていたが、現在は条例の改正によってソープランドの特例処置は台東区千束四丁目の16番から32番、41番から48番に限られている。