1940年代と肉筆画帖
在世中は匈奴・鮮卑の侵攻に悩まされ続けた。さらに、後漢末の混乱期から、匈奴・鮮卑といった異民族が中原の地に移住するようになり、従来の漢人住民とトラブルを起こすようになっていた。侍御史の郭欽は、呉を統一した機会にこれら異民族を辺境に戻すべきだと上奏したが、司馬炎はこれに聞く耳をもたなかった。太康5年以降、天災が相次ぎ、日食もしばしば起き、人心は荒廃した。こうした中、太熙元年夏4月、司馬炎は含章殿において56歳で死に、その遺体は峻陽陵に葬られた。司馬炎は、父・司馬昭の敷いた路線にしたがって晋王朝を創始した。司馬炎は天下を取るまでは英君だったが、天下を取った後は堕落していく。そのことが統一後の国家の基盤形成を怠ったことになり西晋が早く滅亡する要因ともなった。
上元 674年-676年 儀鳳 676年-679年 調露 679年-680年
中国の伝説上の聖天子は、血縁関係によらず有徳の人物に帝位を譲ったとされる。例えば、五帝と呼ばれる天子たちは、堯が舜に禅譲し、舜が禹に禅譲した。このような伝説は、儒家が過去を理想化する中で生まれた。実際の権力交代は武力による事が多かったと考えられるが、現在の権力に正当性を付与し、儒家の思想の根幹たる「礼」を成立させるためにこのような理想化が行われたと考えられる。太古は王位にさしたる利権がないがゆえに世襲とならず有力部族長の持ち回りだった、などの事情を反映している可能性もある。歴史上禅譲と呼ばれているものは、実際には簒奪に近いものであり、王朝の正統性を保証する演出として行われ続けた。
南宋初めの混乱期には宗教に気を使う余裕は無かったが、ある程度の安定が得られた後の高宗および孝宗は仏教と道教を比較して仏教のほうを優遇していた。また仏教・道教に共通して度張を売り出すと共に、僧侶・道士が免役銭を払わないのは良くないとして免丁銭を徴収するようになった。両者ともに南宋の財政難の対策である。南宋皇室ともっとも関係が深かったのが天師道である。高宗・孝宗などに当事の天師たちがたびたび召されまじないによって災いを祓って褒賞を受けたという。一方で上清派は皇室から遠く、民間の勢力に留まっていた。総じて南宋代の道教については分かることが少ないが、上述のようにあまり優遇はされていなかったようである。以上の三教が国家公認の宗教であるが、その他にも民間では様々な信仰対象があった。