皇帝一族と明の元号
20世紀に入り、呉に関連した考古学上の発見が相次いだ。1984年に南京市近郊の馬鞍山で発見された呉の将軍朱然の墓や、1996年に長沙市で発見された10万枚以上の簡牘などにより、呉の文化や地方政治について研究が続けられている。2006年には、呉の時代に作られたと見られる古墓が南京市で発見された。黄龍 229年 - 231年 嘉禾 232年 - 238年
関羽・張飛・諸葛亮らを留守に残し、劉備は自ら龐統・黄忠・法正などを引き連れて、数万人の兵を率いて、蜀へ赴いた。蜀に入ると劉璋によって歓待を受け、宴が開かれた。龐統はこの機会に劉璋を捕らえて一気に蜀を手に入れるように進言したが、劉備は「今はその状況ではない」と述べて退けた。劉璋は劉備に兵や戦車や武器や鎧などを貸し、劉備軍は総勢3万人となった。その後、劉備は兵を率いて前線の葭萌へ駐屯し、この地で張魯を討伐するよりも住民たちの人心を収攬することに勤め、来たるべく蜀占領に向けて準備を整えた。212年、曹操が孫権を攻め、劉備に対して救援要請が来た。劉備たちはこれを兵力移動の隠れ蓑にして劉璋から付けられた監視役の高沛と楊懐の二将を謀殺して、葭萌城を霍峻に守らせ、蜀の首都成都へと向けて侵攻を始めた。諸葛亮・張飛・趙雲らも長江をさかのぼり、益州の郡県を攻略した。関羽は本拠地の押さえとして引き続き荊州に残った。劉備本軍は涪城を占拠し、冷苞・劉?・張任・鄧賢を破り、綿竹の総指揮官である李厳を降伏させるなど、初めは順調に進んでいたものの、劉循・張任が守る雒城にて頑強な抵抗に合い、一年もの長い包囲戦を行なわざるを得なかった。この戦闘中に龐統が流れ矢に当たって死去している。そして、諸葛亮ら別働隊と合流した劉備はようやく雒を落とすことに成功し、さらに成都を包囲、劉璋は降伏した。こうして劉備の蜀の乗っ取りは功を成した。
タブガチュの系統の呼称は、1069年のクタドグ・ビリク におけるタフカチやTamghaj、Tomghaj、Toughajなど突厥以後も中央アジアで広く使われた。1220年-1224年に西方を旅した丘長春は「桃花石」と記録している。11世紀-12世紀のカラハン朝 においては数人の可汗がTabghach という名である。しかしモンゴル帝国の時代前後に後述するキタイに取って代わられた。なお古テュルク文字碑文以前、東ローマ帝国の歴史家テオフィラクトス・シモカッタ の7世紀前半に書かれたとみられる突厥による柔然滅亡関連の記事にタウガス との記載があり、これも同系統の呼称と思われる。記事が書かれた時期は隋末-唐初期と思われ、柔然の滅亡は西魏から北周、東魏から北斉への禅譲と同時期となる。江戸時代以前の日本の人々は、しばしば遣唐使を通じて長く交渉を持った唐の国号をもって中国を呼んだ。古語で外国を意味する「から」の音を「唐」の字にあてる例も多い。中国を「唐土」と呼称したり、日本に来航する中国商人は「唐人」と呼ばれ、文語の中国語を「漢文」というのに対して口語の中国語は「唐語」と呼ばれた。また、かつて東南アジアなどの華人も祖国を「唐山」と呼んだ。
大宰府は、7世紀後半に、九州の筑前国に設置された地方行政機関。和名は「おほ みこともち の つかさ」。大宰とは、地方行政上重要な地域に置かれ、数ヶ国程度の広い地域を統治する役職で、いわば地方行政長官である。大宝律令以前には吉備大宰、周防総令、伊予総領などあったが、大宝令の施行とともに廃止され、大宰の帥のみが残された。『続日本紀』文武天皇4年10月の条に「直大壱石上朝臣麻呂を筑紫総領に、直広参小野朝臣毛野を大弐と為し、直広参波多朝臣牟後閇を周防総領と為し」とあるように「総領」とも呼ばれた。