征夷大将軍と由緒ある関連
真宗の死後、宋皇室の道教に対する態度は以前のように三教平等の状態に戻ったが、徽宗に至って道教に自ら道君皇帝と名乗り、『老子』や『荘子』に注釈を行うほどの傾倒振りを示した。多くの道士が徽宗に侍るようになったが、その中でも特筆すべきが林霊素である。林霊素は1115年ごろ徽宗にあって道教理論を説き、その優れていることを認められ先生の号を授けられた。そのすぐ後に道学が設けられ、太学に道教の研究を行う『道徳経』・『荘子』・『列子』の博士が設けられた。更に林の示唆により仏教に対して仏を大覚金仙・僧侶を徳士などと改名させ、僧侶に対して道士の服を着ることを強制するなどといったことが定められたが、これは一年で撤回された。このように道教の隆盛振りは大きなものがあったが、皇帝と結びついた教団は一般信者との距離が大きくなり、堕落が見られるようになった。これが北宋末から金初にかけて登場する太一教・全真教・真大道教などの新道教を導くことになった。
曹操は武芸にも優れており、揚州で兵を徴募した際、多数の兵卒が反乱を起こしたが、曹操は剣を手に数十人を殺し、残りのものは皆恐れをなしたといわれるほど、人並みはずれた腕力を持ち、自身で飛ぶ鳥を射たり猛獣を捕らえたりしたともいう。また曹操は張譲の邸宅に忍び込んで発見された際、手戟を振り回し土塀を乗り越えて逃げ、その人並外れた武技で誰も彼を殺害できなかったという。裴松之が引用する張華の『博物志』では、草書・音楽・囲碁に長けた当時の人物を紹介した後、彼らに劣らぬ腕前の持ち主として曹操の名を記している。また、食に対する興味・関心が深く、知識も豊富であったことが伺える。なお、陝西省漢中博物館には、曹操が書いたと伝わる文字の拓本が残る。『三国志』何夔伝によれば、曹操は厳しい性格で、職務で誤りを犯した属官をしばしば杖で殴っていた。曹操が司空だった時、何夔は属官となったが、毒薬を所持し、杖で叩かれたら毒薬を飲む覚悟で職務に当たっていた。孫盛は曹操のこの行動を礼節に欠けると批判するとともに、毒薬で処罰を逃れようとする何夔の心の狭さも批判している。
淳仁天皇を経て重祚し、第48代称徳天皇 - 神護景雲4年8月4日)。この称徳天皇以降は、江戸時代の明正天皇に至るまで、実に850余年女帝は立てられることはなかった。聖武天皇と光明皇后の間にはついに男子が育たず、天平10年1月13日に娘・阿倍内親王を立太子し、史上初の女性皇太子となる。結婚はできず、子もなかった。将来皇位を継承することに決まった事が理由と考えられる。
この後、朝鮮では秀吉の死が伏せられていたが、日本軍は第二次蔚山城の戦い、泗川の戦い、順天城の戦いでは次々と明・朝鮮軍を撃破していた。しかし秀吉の死去にともない、秀吉の目標であった朝鮮の服属と明の征服は意味を失い、朝鮮からの撤兵が決まったため、朝鮮出兵は終了した。この戦争は、朝鮮には国土の荒廃と軍民の大きな被害をもたらし、明には莫大な戦費の負担と兵員の損耗によって滅亡の一因となった。また、出兵の中心であった西国大名達の疲弊は結果的に豊臣政権の滅亡をも早めた。秀吉の墓は壮麗に築かれたものの、没後の混乱のため、葬儀は行なわれなかった。秀吉は政策面では織田信長のものを多く踏襲している。具体的には太閤検地・刀狩によって税制の確立と兵農分離、そして楽市楽座・朱印船貿易・貨幣鋳造によって商業振興と商業統制を行った。その中でも検地や刀狩、楽市楽座等といったものは織田政権下でも限定的に行われていたものであるが、秀吉はそれらの政策を改良し全国的に運用したという点で特筆される。例えば天正16年に発令された刀狩令は、織田政権下の北陸で行われていた「原刀狩令」と異なり、紛争地域の武装解除に留まらず農民の交戦権そのものの否定を志向したものであると評価される。信長が廃止できなかった七口の関の廃止を行ったのも秀吉であり、また楽座を標榜しながら座の権益を安堵することが多かった信長と異なり、座の撤廃を強行したのも秀吉である。そのため脇田修や佐々木潤之介といった近世封建制度の研究者によって、「信長までは中世であり、秀吉から近世が始まる」という評価をされている。秀吉の政策の多くは更に改良されて江戸幕府に継承された。こういったことから、江戸時代の幕藩体制の基礎を築いたとも評価される。