全般・通史と一族縁者

南宋初の詞人として辛棄疾・姜夔が挙がる。辛棄疾は金に対する主戦論者で、そのため官僚としては不遇であった。その憂国の志を詠んだ詞が多く、周邦彦とは異なり率直な表現が特徴。その詞は蘇軾と通じるものがあり、蘇軾と共に豪放派の代表とされ、蘇軾と並んで蘇辛と称される。これに対して姜夔は周邦彦の流れを汲んだ典雅な詞風が特徴である。姜夔は生涯官途に付くことは無かったが、その文名により多数の高級官僚と親交を持っていた。その生涯とその詩風は孤高という点で通じ「清空」と評される、

さらに新田軍は鎌倉街道を進み、入間川を渡り小手指原に達し、桜田貞国・金沢貞将率いる幕府軍と衝突する。兵数は幕府軍の方が勝っていたが、同様に幕府へ不満を募らせていた河越氏ら武蔵の御家人の援護を得て新田軍は次第に有利となり、幕府軍は分倍河原まで退却する。幕府軍は再び分倍河原に陣を張り、新田軍と決戦を開始する。新田軍は一度は大敗するが、翌日には援軍に駆け付けた三浦氏一族の大多和義勝らの兵を合わせて幕府軍を撃破しており、恐らく足利高氏による六波羅探題滅亡の報が到達しており、幕府軍の増援隊の寝返りなどがあったのではないかとも考えられる。翌日、多摩川を渡り、幕府の関所である霞ノ関にて幕府軍の北条泰家と決戦が行われ、新田軍が大勝利を収めている。藤沢まで兵を進めた義貞は、軍を化粧坂切通し方面、極楽寺坂切通し方面と巨副呂坂切通し方面に分けて鎌倉を総攻撃。極楽寺坂切通しの突破を困難と判断した義貞は、干潮に乗じて稲村ヶ崎から強行突破し、幕府軍の背後を突いて鎌倉へ乱入。北条高時の一族を北条氏菩提寺の東勝寺で自害させ、挙兵からわずか15日で鎌倉幕府を滅亡に導く。しかし、鎌倉陥落後、千寿王を補佐するために足利高氏が派遣した細川和氏・顕氏兄弟らと衝突し、居場所を失った義貞は上洛する。建武の新政においては、義貞は鎌倉攻めの功により1333年8月5日、従四位上に叙位。左馬助に任官。上野介、越後守等を兼任。同年10月には、播磨介を兼任。この年、武者所の長たる頭人となる。また、上野国・越後国両国守護を兼帯。翌年、播磨守と同国守護も兼帯。以後、左衛門佐、左兵衛督などの官職を歴任。

水戸藩には、徳川頼房の子を藩祖とする支藩が四家ある。尾張は慶長5年9月、関ヶ原の戦い終結まで清洲城主・福島正則が24万石で支配していた。戦功により福島正則は安芸広島藩に加増移封された。関ヶ原の戦いの戦功により徳川家康の4男・松平忠吉が入封する。しかし慶長12年に忠吉に嗣子がなく死去して天領となった。

元和2年1月、鷹狩に出た先で倒れた。3月21日に朝廷から太政大臣の位を贈られた。 4月17日の巳の刻に駿府城において薨去した。享年75。死因は、鯛の天ぷらによる食中毒説が有力であった。しかし、家康が鯛の天ぷらを食べたのは1月21日の夕食であり、亡くなったのは4月17日なので、食中毒とするには日数がかかり過ぎている。近年では、諸症状からみて胃癌が死因であるとも考えられている。なお、家康が問題の天ぷらを食べたのは田中城であった。 家康は調剤知識があり、自身の腹痛も自家調剤の薬品で治そうとし、それを諌めた侍医を信州に流罪にまでしている。辞世の句として『東照宮御実記』に以下の二首を詠んだと伝わっている。

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