人々の生活と概説書
まず1872年、日本の琉球併合により冊封国琉球を事実上失った。1884年、インドシナ半島の植民地化を進めるフランスに対しベトナム宗主権を維持しようと清仏戦争が起きたが、これによって冊封国ベトナムを失い、アジアの盟主の地位が激しく揺らいだ。続く1894年、朝鮮で東学党の乱が起こり清が宗主国として介入すると、朝鮮支配を狙う日本も対抗して出兵して日清戦争に発展したが、清の敗北に終わり、下関条約によって台湾割譲と朝鮮が自主国であることを承認させられ、冊封国朝鮮に対する影響力も失った。「眠れる獅子」と畏れられた清が、新興国日本に敗北する様子を見た欧州列強は、1896年から1898年にかけて勢力分割を行い、満洲からモンゴル・トルキスタンをロシア、長江流域をイギリス、山東省をドイツ、広東省・広西省をフランスが勢力圏とした。同じく、イギリスは香港の九龍半島と威海衛、フランスが広州湾、ドイツが青島、ロシアが旅順と大連を租借地として、それぞれ要塞を築いて東アジアの拠点とした。アメリカは南北戦争による国内の混乱から出遅れたため、中国市場は全ての国に平等に開かれるべきだとして、門戸開放宣言を発した。これに対し康有為・梁啓超ら若い知識人が日本の明治維新にならって清も立憲君主制を取り国政の本格的な近代化を目指す変法自強運動を唱えはじめた。彼ら変法派は光緒帝と結んで1898年一時的に政権を奪取することに成功するが、西太后率いる保守派の反撃にあって打倒された。その後、西太后は愛新覚羅載儁を皇帝として擁立するも、保慶帝の父が義和団の指導者であるため強い反発をうけ、3日で廃された。
「欽崇天道、永保天命」。なお、この元号は平安時代後期仁平4年の改元の際にも最終候補に挙げられたものの、当時の左大臣藤原頼長が「天保」を≪一大人只十≫と読めるので縁起が悪いと猛反対したために久寿に差し替えられたという故事がある。『風流仏』で評価され、『五重塔』『運命』などの作品で文壇での地位を確立。尾崎紅葉とともに紅露時代と呼ばれる時代を築いた。擬古典主義の代表的作家で、また漢文学・日本古典や諸宗教にも通じ、多くの随筆や史伝のほか、『芭蕉七部集評釈』などの古典研究などを残した。
朱子学は身分制度の尊重、君子権の重要性を説いており、明によって行法を除く学問部分が国教と定められた。13世紀には朝鮮に伝わり、朝鮮王朝の国家の統治理念として用いられる。朝鮮はそれまでの高麗の国教であった仏教を排し、朱子学を唯一の学問とした。日本にも「輸出」されて徳川幕府のイデオロギーとして尊重された。その結果、東アジアの社会秩序が「儒教的」になった原因として、朱子および朱子学が後世の批判を受けるようにもなっているが、このような否定的側面だけでなく、当時の体制による運用の実態を明らかにし、後世に及ぼした肯定的側面について研究をおこなうことも重要である。70余部、460余巻あるとされる。
衛所制は政府から軍戸に対して土地を下賜し、その土地からの収入による自足自給を建前としていた。しかし正統期ごろから軍戸の中に窮迫する者が増えて逃亡が増大し、また宦官や地方の軍官などが軍戸に与えられるべき土地を私物化することが増えて、軍戸の生活は破綻した。これに対して中央から食料を送っていたが、これが大きな財政負担となっていた。その食料を軍官たちは様々な手段で私した。例えば兵数を実数よりも過大に報告することで差額を懐に入れるのである。このような事から明末には衛所制は無力化し、国防は各地の軍官に雇われていた私兵が役目にあたることとなる。里甲制も年が下るごとに課される労役・税の事務作業と項目が複雑化し、負担が過重で不公平の度合いが激しくなった。これに対して万暦期の宰相・張居正が一条鞭法を実施した。それまでの複雑な税体系を簡便化し、銀納の一本にまとめてしまったものである。これにより一時期財政は好転したが、その後の万暦帝の奢侈により張居正の努力は水の泡となってしまった。洪武帝は明を建てるとすぐに科挙を行い、大々的に人材を募集した。その後、一時期停止されたが、永楽帝以降は明が終わるまで継続されている。