コンピュータゲームと八方睨み鳳凰図

荊州の劉備領を守備していたのは関羽で、その頃の関羽は荊州北部の曹操領に対して猛烈な攻撃をかけ、曹操の部将の于禁が率いる七軍を壊滅させ、樊城・襄陽を包囲した。一時は曹操すらうろたえて遷都を考えたほどであった。そこで曹操は、孫権に長江南部の領有を認める条件で孫権と同盟を結び、孫権に劉備を攻撃させた。そして、関羽の隙を突いた孫権の部下の呂蒙・陸遜の策にはまり、関羽は孫権に捕らえられて処刑され、南郡・武陵・零陵は孫権の領有するところとなった。この戦いの結果、劉備たちと対立することが確定的となったために孫権は曹操に対して形式的ではあるが、臣従した。220年に曹操が死に、後を継いだ曹丕はついに献帝より禅譲を受けて皇帝となり、魏を建国した。これを聞いた劉備も対抗して221年に皇帝に即位、漢の後継者と称したの創設)。皇帝となった劉備だが、長年の部下である関羽と魏攻略の足がかりとなる荊州を失った怒りは激しく、孫権に対する復讐戦を企図し、反対する者を遠ざけて出兵に踏み切った。蜀漢軍は最初のうちは連戦連勝であったが、呉の陸遜の策にはまり、大敗、劉備は退却し白帝城で病死した。その後を劉禅が継ぎ、諸葛亮が丞相として蜀漢の内外政を一手に引き受けることになる。

また、222年に魏は3方向から呉を攻め、曹休が呂範を破り、曹真・夏侯尚・張郃らが江陵を包囲攻撃し、孫盛・諸葛瑾を破ったが、曹仁が朱桓に敗れ、疫病が流行したため退却した。曹丕は226年に死去し、長男の曹叡が魏の皇帝となった。227年、呉の孫権・諸葛瑾らが3方向から魏を攻めたが、司馬懿・曹休らに敗れた。

那波活所に師事し、その後父・羅山とともに江戸幕府に仕えた。1657年林家を継ぎ、幕政に参与した。1663年4代将軍徳川家綱に五経を講義して弘文院学士号を与えられ、訴訟関係・幕府外交の機密にあずかった。日本史に通じ、父羅山とともに「日本王代一覧」「本朝通鑑」「寛永諸家系図伝」など幕府の初期における編纂事業を主導し、近世の歴史学に大きな影響を与えた。鵞峰が整えた林家学塾の組織は、その後の昌平坂学問所の基礎となった。1643年の著書「日本国事跡考」の中で「松島、此島之外有小島若干、殆如盆池月波之景、境致之佳、與丹後天橋立、安藝嚴島爲三處奇觀」と記し、これが現在の日本三景の由来となった。2006年、林鵞峰の誕生日にちなみ、7月21日が「日本三景の日」と制定された。その武勇、曹操が義理堅いと評した事から、後世の人間が神格化し関帝とし、47人目の神とした。信義に厚い事などから、現在では商売の神として世界中の中華街で祭られている。そろばんを発明したという伝説まである。

天正14年11月1日、家康は京に赴き、11月5日に正三位に叙任される。11月11日には三河国に帰還し、11月12日には大政所を秀吉の元へ送り返している。12月4日、家康は本城を17年間過ごした浜松城から隣国・駿河の駿府城へ移した。これは、出奔した石川数正が浜松城の軍事機密を知り尽くしていたため、それに備えたとする説がある。天正15年8月、家康は再び上洛し、秀吉の推挙により、8月8日に従二位、権大納言に叙任され、武蔵大納言と呼ばれた。この際、秀吉から羽柴の名字を称すことも許された。その後、家康は北条氏と縁戚関係にあった経緯から、北条氏政の弟で旧友の北条氏規を上洛させるなど秀吉と北条氏との仲介役も務めたが、北条氏直は秀吉に臣従することに応じず、天正18年、秀吉は北条氏討伐を開始する。家康も豊臣軍の一軍として参戦した。

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