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順治帝に続く、康熙帝・雍正帝・乾隆帝の三代に清は最盛期を迎えた。康熙帝は、即位後に起こった三藩の乱を鎮圧し、鄭氏の降伏を受け入れて台湾を併合して、清の中国支配を最終的に確立させた。対外的にはロシアとネルチンスク条約を結んで東北地方の国境を確定させ、外モンゴルとチベットを服属させた。また、このころ東トルキスタンを根拠地としてオイラト系モンゴルのジュンガル部が勃興していたが、康熙帝は外モンゴルに侵入したジュンガル部のガルダンを破った。のち乾隆帝はジュンガル部を滅ぼして東トルキスタンを支配下においた。これによって黒竜江から東トルキスタン、チベットに及ぶ現代の中国の領土がほぼ確定した。

安史の乱以後の唐の財政は苦しくなり、その打破のために758年に塩と鉄の専売制を実施した。専売の統括をする役職が塩鉄使である。塩の産地には製造業者を集める巡院という機関が置かれ、ここで登録を受け、できた塩は登録された塩商人に売り、外部へ塩が流出しないように監視された。専売制によってかけられる税は莫大で、塩にかかる税額の大きさは専売制実施前が1斗が10銭であったのが実施後には110銭になるというほどであった。しかもこれ以後財政が悪化するとその都度値上げされている。また、生産者の自由も制約されるようになると製塩従事者の勤労意欲も減退して、品質の低下に繋がった。

その後、孫権は西の蜀を領有することを考えるが、準備中に総大将の周瑜が病死して計画は頓挫し、その隙に先を越されて蜀は劉備に占拠された。210年、孫権は歩騭を交州刺史に任命して交州に派遣し、士燮を服属させ、呉巨を謀殺した。212年にはそれまでの呉から建業へと拠点を移した。この年からは連年、曹操との間に戦いが起こるが、双方共に戦果を得られなかった。

大宰府は、7世紀後半に、九州の筑前国に設置された地方行政機関。和名は「おほ みこともち の つかさ」。大宰とは、地方行政上重要な地域に置かれ、数ヶ国程度の広い地域を統治する役職で、いわば地方行政長官である。大宝律令以前には吉備大宰、周防総令、伊予総領などあったが、大宝令の施行とともに廃止され、大宰の帥のみが残された。『続日本紀』文武天皇4年10月の条に「直大壱石上朝臣麻呂を筑紫総領に、直広参小野朝臣毛野を大弐と為し、直広参波多朝臣牟後閇を周防総領と為し」とあるように「総領」とも呼ばれた。

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