歴代皇帝と行政・治安関連

小田原城は上杉謙信や武田信玄も落とせなかった堅城である。しかし、季節的な理由で兵を引く可能性のない包囲軍の前では無力であった。三ヶ月の篭城戦の後に北条氏政・北条氏直父子は降伏した。北条氏政・北条氏照は切腹し、氏直は紀伊の高野山に追放された。小田原城を包囲中に、伊達政宗ら東北の大名も秀吉に恭順の意を示した。これによって、名実ともに秀吉の天下統一事業が完遂された。後北条氏を下し天下を統一することで秀吉は戦国の世を終わらせたが、一方で臣従させた伊達氏のように、戦争を行っていない諸大名は軍事力を温存することができた。これらの有力諸大名の処遇が、豊臣政権の課題となった。天正19年に後継者に指名していた鶴松が病死した。そのため、甥・秀次を家督相続の養子として関白職を譲り、太閤と呼ばれるようになる。ただし、秀吉は全権を譲らず、太閤として実権を握り二元政を敷いた。この年、重用してきた茶人千利休に自害を命じている。利休の弟子の古田重然、細川忠興らの助命嘆願は受け入れられず、利休は切腹した。その首は一条戻橋に晒された。この事件の発端には諸説がある。

散文においては韓愈の例に倣い、いわゆる古文復興運動をすすめた。滁州の自然や人々の生活を描写した「醉翁亭記」は、有名な作品のひとつであり、中国の紀行文の最高水準のひとつとして賞賛される。韻文では詩と詞をともに書き、気取らず、ユーモラスな作風である。詩は、晩唐の絢爛たる文体を避け、盛唐期の威風を残した無駄のない質実剛健なものである。しかし彼は、どちらかと言えば詞で有名である。特に「采桑子」のために創られた「西湖好」と名付けられた一連の詞は、その様式の標準となり詞を大衆化することに大きく貢献した。歴史家として、地方勤務中に『新五代史』を編み、中央に戻り宋祁とともに『新唐書』を編纂。これらは当時の名高い経学者であった劉敞に春秋の凡例を尋ねるなどして作られたもので、春秋学的色彩の強い謹厳なスタイルを堅持する書物として評価された。また金石文の収集を好み、『集古録』にまとめ、史料編纂の方法として金石文の使用を確立しするなど宋代の歴史手法に大きな影響を与えた。

宋代研究で真っ先に言及されるべきは何と言っても宮崎市定の一連の研究である。後述するように宮崎の研究は社会経済史を主とはするが、それ以外の政治・法制・文化など全ての分野を覆っており、宮崎の研究を無視して宋代研究は成立しない。個々の研究に付いては後述するが、それらは『全集9 五代宋初』・『10 宋』・『11 宋元』・『12 水滸伝』に纏められているので、宋代研究を志すものはまずここを出発点とするべきであろう。東洋史における京都学派の創始者である内藤湖南は1922年の「概括的唐宋時代觀」の中でと延べ、唐までを中世・宋からを近世とした。この唐と宋との間を中国史における画期と見る考え方を唐宋変革論という。

諸説ある。 漢民族の宋が女真族の金によって南方に追われたことがあったため、明に「後金」という国号を警戒されることを恐れて、金と同音異字の「清」としたという説。 五行説にもとづくという説。明が「火徳」であることから、それにかわる「水徳」をあらわす「氵」と、『周礼』で東を象徴する色とされる「青」を組み合わせ、中原進出の意味を込めたというもの。また、「しん」という読み方が、北京官話と異なることは長崎や明の遺民を通じて伝えられていたものの、そのことは知識人らの残した文書などにみられる程度である。ラテン文字転写としてウェード式では清を「Ch'ing」と綴る。1958年のピンイン制定後は「Qing」と綴る。

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