海上交易と倭寇と家臣(武官)

宋の食に付いては陶穀『清異録』・蘇軾の料理を題材に読んだ詩、『東京夢華録』・『夢梁録』などが参考となる。唐宋の間に文化の他の分野では大きな変革が起こったが、料理に関してはそれほど唐と変わりがない。日本人が想像する現代の中華料理は非常に油っこいものであるが、これは元代にモンゴルの影響を受けたものであり、宋代のそれはむしろあっさりとした味であり、日本料理を髣髴とさせるものであったという。主食は農業の節でも記したように、華北は麦などの雑穀類を主とし、華南は米を主とする。米はそのまま炊いて食するのが主であるが、小麦は粒状にして加工して食べる。宋代を通じて次第に互いの間に浸透して行き、華北の米食・江南の粉食がそれぞれ増えることになる。小麦の加工品は極めて種類が多いので分類のみ挙げると、蒸す・焼く・揚げるの餅類と茹でる麺類に分けられる。

ちなみに、近作では年齢を重ねるごとにより、一部の有名人物の顔グラフィックが、ある年齢から老化する様になっている。従来、『演義』で初登場時に既に「老将」扱いであった黄忠などに効果は顕著で、壮年期の姿を拝むことができるほか、隻眼になる前の夏侯惇のグラフィックも存在する。関連書籍は全てコーエーからB5判ソフトカバーの書籍判で発売されている。演者は高座におかれた釈台と呼ばれる小さな机の前に座り、張り扇でそれを叩いて調子を取りつつ、軍記物や政談など主に歴史にちなんだ読み物を、観衆に対して読み上げる。上方講談においては、張り扇と拍子木を併用する。

食材に関しては新大陸原産のものを除いて、現代の中華料理で使われる材料がこの時代にほとんど出尽くしている。。肉類ではヒツジ・アヒル・ガチョウ・ニワトリ・ウズラ・ハト・ヒナドリ・ウサギなどが料理名として挙げられている。ブタは盛んに食べられていたのであるが、当時のブタ肉は蘇軾の『猪肉頌』に「泥みたいに安く、金持ちは見向きもせず、貧乏人は料理の仕方を知らない。」あり、安物として蔑まれていた。単に肉だけではなく内臓料理なども多い。魚介類ではコイ・エツ・フナ・フグ・ヒラウオ・甲殻類・貝類・ドジョウ・ウナギなどなど。

また民間にも儒教を浸透させるために親孝行を為した民衆を称揚したりした。また法制上でも子が親を告発した場合は告発は受け入れられなかったり、親を殺された場合は敵討ちで相手を殺しても無罪になったりしていた。これらの政策の結果、官僚・民間ほぼ全てにわたって儒教の優位性が確立されることになる。その一方で後漢の人々は迷信に対する傾倒も強く、預言書が皇帝・官僚らにも大真面目に取り扱われたり、各地に現われた怪現象・怪人物が大きな話題となり、『後漢書』の中でもそれら当時の仙人たちを取り上げている。天災が天の意思の現れだと言う思想もこの時期に形成されたようである。中国への仏教伝来は一番早い説が紀元前2年であり、最も遅い説が67年である。この時期には浮屠と呼ばれていた。ブッダの音訳である。当初はあくまで上流階級の者による異国趣味の物に過ぎなかったようだ。しかし社会不安が醸成してくるにつれて、民衆の中にも信者が増えて教団が作られるまでに至ったらしい。

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