科学技術と主題歌
五等戸制でいえば、数百から数千の土地を所有する兼併が一・二等、100畝前後の土地を所有する中規模自作農が三等、30から50畝ほどの小規模自作農が四等、20畝以下の零細自作農が五等である。二等戸以上を上等戸、四等以下を下等戸と呼ぶ。土地を所有し、両税を納める戸は主戸といい、土地を持たず納税する能力のない戸は客戸と呼ぶ。しかしこれらの要素がどのような社会を形成していたのか、歴史学者の間でも意見が分かれ、描ききれていないのが現状である。唐代前半まで権力を保持していた貴族は五代の騒乱の中でその勢力を完全に失い、五代は武人の時代となった。しかしその下で実際の政務に当たっていたのは馮道に代表されるような新興地主層出身の科挙官僚であった。宋が立つと太祖の文治政策により、これら新しい勢力が表に出ることになる。この新しい支配者層を士大夫と呼ぶ。
また、岩波文庫には原則として絶版はなく、品切れがあるのみで、1982年から定期的に、リクエストの多い過去の刊行物の復刊を行っている。重版も毎月3.4冊と、数十冊の一斉重版も年に1.2度している。カバーの背表紙下側の色によって大きく五つのジャンルに分けられている。1974年までは、下位分類は刊行順を基礎とするものであったが、1974年から著者番号によって小さなジャンルに分けられる方式を採用した。しかし、当初は移行期ということで、帯の背には旧来の刊行順の番号をつけていた。全面的に著者番号を導入したのは1976年からであり、帯にも著者別番号を記載することになった。また、本体には、1974年までは通算した星の数が、番号として記載されていたが、1974年の新刊・重版からは著者番号に統一された。
町人文化が顕著に発展した時期であり、後続する文政期とあわせ、化政文化という。なお、この改元の際に朝廷や幕府の一部には翌年は辛酉革命による改元の年なのに、1年足らずのための改元はおかしいとする異論が出されたものの、黒船来航以来の国内の混乱に危機感を抱いた孝明天皇の強い意向を受けて行われたのだという。『後漢書』馬融伝の「豊千億之子孫、歴万載而永延」から。
宋初に於いては寇準などの詞が挙げられるが、仁宗朝になってからが真の隆盛期といえる。この時期の詞人としては晏殊・欧陽脩・張先・柳永らの名前が挙がり、特に後者二人は詞の新しい境地を開いた人物として重要である。張先は都官郎中を最後として退官し、以後は杭州に隠棲してこの地で八十九まで長寿を誇った。その間、様々な人物が張先の元を訪れてこの時代に於ける詞のサロンを作っていた。それまでの詞では元の曲名のみが記されていることが多く、その詞の背景に付いては全く分からなかったのだが、張先の始めたことから詞を詠んだときの状況が簡単に付されるようになった。また張先により詞はふとした日常的な事柄が詠まれるようになり、この時期をもって詞は詩と共に文学として士大夫の間に広まっていったと考えられる。柳永は科挙を受けるために開封にやってきたが、そこで身を持ち崩して娼館に入り浸るようになったという人物である。その経験からか男女に関する詞が多く、使われる表現も俗語を交えたもので、士大夫たちからは激しく批判された。これまでの詞は小令と呼ばれる六十字までの物がほとんどであったが、民間に於いては慢詞と呼ばれる長文の物が主流であった。これが柳永の登場以降、士大夫の間でも慢詞が謡われるようになった。