後漢・三国・西晋と清の后妃
明暦2年に妻を亡くした際には、その死を悼む詩を26首詠むなど愛妻家でもあった。翌年、明暦の大火によって邸宅と書庫を焼失し、その4日後に死去した。書庫が焼失した衝撃で命を縮めたという説がある。墓は東京都新宿区市谷山伏町にある。林羅山は、朱子学者として、万物は「理」と「気」から成るとする理気二元論を説き、理法が諸現象を支配するのと同様に理性が情欲を支配することを理想とした。また、上下定分の理を説いて士農工商の身分制度を正当化した。『毛詩注疏』の「文王功徳深厚、故福慶延長也」から。
この頃になると国内では孫晧に対する反乱も起きるようになるが、孫晧は省みずに後宮に数千と言う美女を集め、逆らう家臣は拷問して殺していた。そんな中で陸遜の息子の陸抗や朱績や丁奉が呉の防衛を支えていた。272年には歩闡が呉に背き、西晋に寝返ったが、陸抗がこの反乱を鎮圧した。270年に朱績が、271年には丁奉が、さらに274年に陸抗が死去すると、もはや呉には柱となる人材はいなくなった。そして279年、晋は20万という大軍を繰り出して呉へ侵攻してきた。呉の将兵には孫晧に見切りをつけ、戦わずして晋に降る者も多く、翌280年3月に晋軍は建業に達して孫晧は降伏、呉は滅亡した。呉の皇帝の孫権は236年に五銖銭500枚、238年に五銖銭1000枚の価値を持つ貨幣を発行し、貨幣経済の充実に努めた。
一方、文禄2年に側室の淀殿が秀頼を産むと、秀次との対立が深刻となる。2年後の文禄4年、秀次を「殺生関白」と呼ばれたほどの乱行を理由として廃嫡し、高野山へ追放。のちに謀反の容疑で切腹を命じた。秀次の補佐役であった古参の前野長康らも切腹処分となったほか、秀次の妻子などもこの時処刑された。秀次の乱行が実際にあったかには諸説あり、実子が生まれたので秀次が邪魔になったという見方もされている。文禄5年、明との間の講和交渉が決裂し、慶長2年、小早川秀秋を元帥として14万人の軍を朝鮮へ再度出兵する。漆川梁海戦で朝鮮水軍を壊滅させると進撃を開始し、2ヶ月で慶尚道、全羅道、忠清道を席捲、京畿道に進出後、南岸に城塞を築いて久留の計が取られることとなる。このうち蔚山城は完成前に明・朝鮮軍の攻撃を受け苦戦したが、援軍を得て大破した。同年の貴族の日記に、大阪城にいる秀吉のもとに象が連れて来られたと記録されている。慶長3年5月から秀吉は病に伏せるようになり日を追う毎にその病状は悪化していった。そして、自分の死が近いことを悟った秀吉は同年7月4日に居城である伏見城に徳川家康ら諸大名を呼び寄せて、家康に対して子の秀頼の後見人になるようにと依頼した。 5月15日には『太閤様被成御煩候内に被為仰置候覚』という名で、徳川家康・徳川秀忠・前田利家・前田利長・宇喜多秀家・上杉景勝・毛利輝元ら五大老及びその嫡男らと五奉行のうちの前田玄以・長束正家に宛てた十一箇条からなる遺言書を出し、これを受けた彼らは起請文を書きそれに血判を付けて返答した。8月5日、秀吉は五大老宛てに二度目の遺言書を記し、8月18日、秀吉はその生涯を終えた。秀吉死去の際、五大老のうち上杉景勝は会津に帰郷していた。
宋代の専売の品目は塩・茶・酒・ミョウバンなどで、その中でも高い収入を上げたのが塩と茶である。塩は生物の生存に不可欠な物質であるために需要が止まることはない。また茶の風習は古く漢代よりあったが、中唐ごろより大きく広まり、宋代においてはどんな貧乏人でも毎日の茶は欠かせないといわれるほどになっていた。また契丹などの諸外国においても飲茶の風習が広まっており、茶の需要は非常に高くなっていた。塩の生産地として最大の物は旧南唐の領域であった両淮地方でここが生産の約半分を占める。それに次ぐのが解州で二割、以下両浙・四川・河東と続く。茶では江南地方が最も多く四割ほどをここが占め、これに次ぐのが淮南の三割強、以下荊南・両浙と続く。生産を行う者は解州では周辺の州に毎年交代で戸ごとに二人の壮丁を出させて行わせる。それぞれ畦戸・畦夫と呼ばれ、畦夫には毎日米2升・畦戸は年銭40貫と他の役免除が与えられる。他の地域では特定の戸が塩の生産に専門的に従事する。両淮や両浙ではこれを亭戸といい、四川では井戸、茶においては園戸という。亭戸は生産の初期費用として塩本銭(茶本銭)を貸し付けられ、出来た塩を納入することでそれを返却することになっていた。しかし塩本銭を私する官吏たちによりその原則は早々に崩れ、初期費用は身銭を切り、納入した後で初めて塩本銭を支給されることが多く、その額も過小な額しか支給されないことが多かった。そのため逃亡する亭戸も多くなり、私塩が増えることになった。生産された塩・茶を流通・販売するにおいては全てを官営で行う場合と、ある程度民間商人の手にゆだねる方式があった。官営の場合は官吏による着服などがあり、その度に値段は上がり、質は下がるという状態であった。私営の場合は密売の横行を招くという欠点があったが、質・価格ともに官営を圧倒するために宋代を通じて概ね私営の時が多かった。