『宮本武蔵』の誕生と皇帝の姓

天復 901年-904年 北宋と南宋とでは華北の失陥という大きな違いがあるが、しかしそれでもその社会・経済・文化は継続性が強く、その間に明確な区分を設けることは難しい。そこで区分しやすい歴史・制度・国際関係などは個々の北宋・南宋の項目で解説し、区分しにくい分野は両者の統合項目である宋 で解説することとする。詳細は北宋・南宋それぞれの項目を参照。

235年、魏の幽州刺史・王雄の部下の韓龍が鮮卑族の大人の軻比能を暗殺した。238年、司馬懿を派遣し、遼東で謀反を起こした公孫淵を滅ぼしている。238年に邪馬台国の卑弥呼が朝貢にきたことが『魏書東夷伝倭人条』に記されている。

男性に最も多く着用された普段着は襴衫である。袖は手まで覆うくらいに長く、袖口が非常に広く、袖山が無い。襟は丸く、裾は襴が前で縫い合わされて帯で結ぶ。これに幞頭という帽子を被り、皮製の履を履くのが官僚・胥吏の普段の服装で、素材は綿が多い。幞頭は布で頭巾を作り、その中に皮などで作ったもう一つの頭巾を合わせることで硬くしたもので、これ自体は唐代からのものであるが、宋代の幞頭の大きな特徴が両側に大きな角が付くことである。上層階級では「直脚」と呼ばれる真っ直ぐ長く伸びた角が多く、下層では「交脚」・「曲脚」と呼ばれる曲がった角が多い。また片方だけを延ばし、片方の角はぐるぐる巻きにしているものもある。幞頭が広く行き渡ると頭巾は廃れてしまった。そうすると逆に好んで頭巾を付ける士大夫も出てくるようになった。働く者の服装に付いては『東京夢華録』によると乞食にいたるまで職業ごとに服装が決まっておりそれによって職業を一目でわかるようになっており、それから外れたものは相手にされなかったという。例えば香料屋の番頭は帽子を被り、背子を羽織り、質屋の番頭は黒い上着に牛角を張った革帯を締め、帽子は被らないといった具合である。

文化大革命が党によって全面批判された後は、このような政治的位置付けは行われなくなり、京劇の上演なども復活している。中国の通俗小説は「回」と呼ばれる講談の一話に相当するまとまりからなるが、現存する版本からの考察では百回構成が最も古い形とされる。容与堂本では、梁山泊に百八人の豪傑が集うまでを描いた七十一回と、梁山泊と朝廷の奸臣たちが派遣した官軍との戦いを描く十回、百八人が朝廷の招安を受けて、北方の契丹人の王朝遼と戦う九回、江南で宋江たちと同じように方臘の乱を起こしていた方臘を官軍として討伐する中で梁山泊集団が壊滅してゆく過程を描いた十回に分かれる。水滸伝が人気を博するようになると、16世紀頃に最後の方臘戦十回の前に、百回本では叛徒として名前が登場するのみの田虎、王慶の反乱軍を鎮圧するそれぞれ十回が付け加えられた百二十回からなる版が生まれた。これを百二十回本と呼び、もともとの百回構成の版を百回本と呼ぶ。

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