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司隷校尉諸葛豊の子孫。泰山郡丞諸葛珪の子。諡は忠武侯。蜀漢の建国者である劉備の創業を助け、その子の劉禅の丞相としてよく補佐した。伏龍、臥龍とも呼ばれる。今も成都には諸葛亮を祀る武侯祠があり、多くの観光客が訪れている。妻は黄夫人。子は蜀漢に仕え綿竹で戦死した諸葛瞻。孫には同じく蜀漢に仕え父と共に綿竹で戦死した諸葛尚や、西晋の江州刺史になった諸葛京がいる。親族として従父の豫章太守諸葛玄、兄で呉に仕えた諸葛瑾とその息子の諸葛恪、弟で同じく蜀漢に仕えた諸葛均などが知られる。一族には、魏に仕えた諸葛誕・諸葛緒・諸葛璋・諸葛虔・諸葛原らがいる。琅邪郡陽都が本貫だが出生地は不明。身長は8尺。その祖先は前漢元帝の時の司隷校尉の諸葛豊で、父は諸葛珪。泰山郡の丞を勤めた人だが、諸葛亮が幼い時に死去している。生母の章氏も同様に幼い時に死去していたが、父は後に後妻の宋氏を娶っている。年の離れた兄には呉に仕えた諸葛瑾、弟には同じく蜀漢に仕えた諸葛均、他に妹がいる。後漢の献帝と生没年が同年である。

192年、袁術の意を受けた孫堅が荊州刺史の劉表を攻めたが、劉表の部下の黄祖に討ち取られた。193年、袁術が曹操の兗州を攻めたが、劉表に背後を絶たれ、曹操に大敗し、本拠地の南陽郡を捨て、揚州の寿春に落ち延び、寿春を本拠地として割拠した。193年、劉虞は公孫瓚を攻めるが、公孫瓚に敗れ、捕らえられて処刑された。

諸葛孔明等の評伝論考も多数ある。下中弥三郎が設立。1923年に株式会社となる。昭和初期の円本ブームの波にのり、1927年から1931年までの間に30種、700巻以上の円本を刊行し「円本全集の総本山」と呼ばれた。だがブームの沈下により、1931年には経営破綻寸前となる。そこで下中自らが企画編集した『大百科事典』全28巻を刊行し、起死回生の成功を収める。その後、戦後に刊行した『世界大百科事典』がロングセラーとなり、現在まで百科事典の出版社としての地位を不動のものにしている。1967年の『国民百科事典』は、全7巻で1万円という安さからベストセラーとなった。

196年、呂布が徐州から劉備を追い出し、徐州を支配した。その後、劉備は呂布に攻められて敗走し、曹操のもとに身を寄せた。196年、曹操は荀彧・董昭らの計略に従い、献帝を曹操の拠点である許昌に連れていった。曹操は献帝を道義的・政治的な後ろ盾として使い、政略を有利に進めていった。以後、許昌は許都と呼ばれる。196年、曹操は屯田制を開始している。この頃、袁術と袁術の部将の孫策が揚州で勢力を拡大していた。孫策は孫堅の息子である。

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