最晩年と夷陵(猇亭)の戦い
その自序中で述べているところによれば、経学は難解であるが、史書は渉猟しやすい。なおかつ我が家には蔵書数が少ないため、正史のみを考証した。正史の二十二史を読む中で気づいた点を書きとめておき、互いに矛盾する記載や興味をもった問題などを比較研究し、それを一書としたのが本書である、という。実際には『新唐書』『新五代史』をも含めた二十四史全てを扱っているが、趙翼の著述の当時これら二書は正史には加えられていなかったため、二十二史と称した。上記の自序中で述べるような異同の問題のみならず、その筆は、各史書の編纂の経緯や筆法、各時代の政治の得失、太平と動乱など王朝の興亡や動静にも及んでいる。その項目数は、全体では約500件に及んでいる。ただし、その考証の精緻さにおいては、同時期の王鳴盛・銭大昕などの考証学者中の大家には及ばないという評価がなされている。また、その考証の論点を傍証するために正史以外の書物まで引用するということも原則的にはしていない。ただ、歴代の正史について見る場合には簡便な書物であり、正史を読む際の参考にはなる。日本では頼山陽が序文を付した和刻本が出版されており、頼山陽はその序文の中で、歴代正史を読まなくても、この本を読めばあらましは分かると述べ、日本では正史の概要を知る本として知られた。巻末には補遺として、趙翼が『御批歴代通鑑輯覧』の編纂に参加した時の、遼代・金代・元代の人名・地名・官職名などの漢訳・訂正の記録を収録している。
現在も日光東照宮の奥社を墓所とし、他の霊廟としては松平氏の菩提寺である愛知県岡崎市の大樹寺、高野山にある徳川氏霊台の安国院殿霊廟、また各地の東照宮に祀られている。なお、徳川将軍15人中寛永寺か増上寺のどちらにも墓所がないのは家康以外には徳川家光と徳川慶喜がいる。その戦上手は「海道一の弓取」と称され、江戸時代には家康は「神君家康公」と呼ばれ、公然と彼を批判対象とした評論を発表すれば処罰の対象となった。逆に明治から太平洋戦争後までは、朝廷を抑圧した「奸臣」として、賞賛することは慮られるようになった。戦後になって比較的自由な家康批評が行われるようになった。家康が礎を築いた徳川将軍家を頂点とする江戸幕府の支配体系は極めて完成度の高いものである。江戸幕府は京、大坂、堺など全国の幕府直轄主要都市を含め約400万石、旗本知行地を含めれば全国の総石高の1/3に相当する約700万石を独占管理し、さらには佐渡金山など重要鉱山と貨幣を作る権利も独占して貨幣経済の根幹もおさえるなど、他の大名の追随を許さない圧倒的な権力基盤を持ち、これを背景に全国諸大名、寺社、朝廷、そして天皇家までをもいくつもの法度で取り締まり支配した。これに逆らうもの、もしくは幕府に対して危険であると判断されたものには容赦をせず、そのため江戸幕府の初期はいくつもの大名が改易の憂き目にあっている。これは朝廷や天皇家でさえも例外ではなく、紫衣事件などはその象徴的事件であった。
4月24日、勝家は正室・お市の方と共に自害した。秀吉はさらに加賀国と能登国も平定し、それを前田利家に与えた。5月2日には、信長の三男・織田信孝も自害に追い込み、やがて滝川一益も降伏した。こうして、反秀吉陣営を滅ぼした秀吉は、信長の後継者としての地位を確立したのである。天正12年、信長の次男・織田信雄は、秀吉に年賀の礼に来るように命令されたことを契機に秀吉に反発し、対立するようになる。そして3月6日、信雄は秀吉に内通したとして、秀吉との戦いを懸命に諫めていた重臣の浅井長時・岡田重孝・津川義冬らを謀殺し、秀吉に事実上の宣戦布告をした。このとき、信長の盟友であった徳川家康が信雄に加担し、さらに家康に通じて長宗我部元親や紀伊雑賀党らも反秀吉として決起した。これに対して秀吉は、調略をもって関盛信、九鬼嘉隆、織田信包ら伊勢の諸将を味方につけた。さらに去就を注目されていた美濃の池田恒興をも、尾張と三河を恩賞にして味方につけた。そして3月13日、恒興は尾張犬山城を守る信雄方の武将・中山雄忠を攻略した。また、伊勢においても峰城を蒲生氏郷・堀秀政らが落とすなど、緒戦は秀吉方が優勢であった。
越中国の佐々成政に対しても8月から富山の役を開始したが、ほとんど戦うこと無くして8月25日に成政は剃髪して秀吉に降伏する。織田信雄の仲介もあったため、秀吉は成政を許して越中新川郡のみを安堵した。こうして紀伊・四国・越中は秀吉によって平定されたのである。その頃九州では大友氏、龍造寺氏を下した島津義久が勢力を大きく伸ばし、島津に圧迫された大友宗麟が秀吉に助けを求めてきていた。天正13年関白となった秀吉は島津義久と大友宗麟に朝廷権威を以て停戦命令を発したが九州攻略を優勢に進めていた島津氏はこれを無視し、秀吉は九州に攻め入ることになる。天正14年には豊後国戸次川において、仙石秀久を軍監とした、長宗我部元親・長宗我部信親・十河存保・大友義統らの混合軍で島津軍の島津家久と戦うが、仙石秀久の失策により、長宗我部信親や十河存保が討ち取られるなどして大敗した。