その他・民間の宗教と『宮本武蔵』の誕生
徳川家康の命により、唐の憲宗の年号を用いた。改元は本来朝廷の権限によるところのものであったが、家康が定めた禁中並公家諸法度第8条により「改元は、漢朝年号の内、吉例を以て相定むべし」とされ、江戸幕府がその権限に介入する事になった。同法度の施行は元和改元の4日後ではあったが、その趣旨については既に朝廷側に通告されており、当然第8条の規定の事も朝廷側に伝えられていた。だが、この時小槻孝亮らによって勘進された複数の案には以上の事情にも関わらず、新しい法度の規定に適合した候補は従来から度々候補に挙げられながら悉く外されてきた天保以外にはこの「元和」のみであった。このため、実際の起草者は幕府側の人物であったとの噂が立てられた。これが一部公家からの反発を招き、この年号が前後の元号に比べて短かった理由の一つとも言われている。
赤壁の戦いの後、劉備は荊州南部を占拠し、劉琦を上表して荊州刺史にたて、荊州の南の四郡を併合した。その後程なくして劉琦が死去すると、家臣たちに推戴されて荊州牧となった。劉備の勢力拡大を憂慮した孫権は、自らの妹を劉備に娶わせ、さらに共同して西の蜀を獲ろうと申し出てきたが、劉備たちは蜀を分け取りにするよりも自分たちだけのものにしたいと考えたためこれを断った。211年、蜀の主である劉璋が五斗米道の張魯に対抗するために、劉備に対し兵を益州に入れて欲しいと要請してきた。ところが、要請の使者である張松と法正は既に劉璋を見限っており、劉備に対して蜀を獲ってしまうように勧めた。龐統もこの話に乗るように進言し、劉備はこれを受け入れた。関羽・張飛・諸葛亮らを留守に残し、劉備は自ら龐統・黄忠・法正などを引き連れて、数万人の兵を率いて、蜀へ赴いた。蜀に入ると劉璋によって歓待を受け、宴が開かれた。龐統はこの機会に劉璋を捕らえて一気に蜀を手に入れるように進言したが、劉備は「今はその状況ではない」と述べて退けた。劉璋は劉備に兵や戦車や武器や鎧などを貸し、劉備軍は総勢3万人となった。
安史の乱後は節度使・観察使の藩鎮勢力が地方に割拠するようになり、中央の地方への影響力は甚だ衰えた。州も本来は中央直属なのであるが、実質的に藩鎮の下部組織となってしまった。また国内には領土の統治のために連絡用の駅伝が30里ごとに置かれており、有事に備えた。唐代は歴代王朝の中でも後漢・明と並んで宦官悪の顕著な時代とされている。唐において最初に権勢を持った宦官は玄宗の側近であった高力士である。高力士は玄宗から絶大な信頼を受け、李林甫などは高力士と結んで高位にまで上ったといわれる。高力士自身は玄宗への忠誠心で全てができているような人物であり、あまり表には出ずに終わった。
238年に邪馬台国の卑弥呼が朝貢にきたことが『魏書東夷伝倭人条』に記されている。曹叡は239年に早世し、その後を養子の曹芳が継いだ。明帝は死去するに際して司馬懿と皇族の曹爽に曹芳の後見を託した。244年には毌丘倹を派遣して、高句麗の首都を陥落させるなど武威を振るったが、内部では曹爽と司馬懿の対立が起こり、曹爽が司馬懿を排除して専権を振るった。249年、司馬懿はこれに逆襲してクーデターを起こして曹爽一派を逮捕、権力を掌握し、曹芳を傀儡とした。250年、王昶・王基らは呉の荊州を攻め、朱績らに勝利し、30万石の兵糧を奪い、数千人を降伏させた。251年、司馬懿が死去し、子の司馬師が権力を引き継ぎいだ。252年、諸葛誕・胡遵が呉を攻めるが、諸葛恪に大敗した。曹芳は権力奪還を目論むが、事前に発覚して254年に廃位され斉王とされた。その後、曹髦が皇帝に擁立された。255年、毋丘倹が反乱を起こしたが、司馬師が鎮圧した。そして同年、司馬師が死去し、その権力を弟の司馬昭が引き継いだ。さらに同年、王経が蜀の姜維に侵攻され、大敗している。しかし256年には、鄧艾が攻めてきた姜維に大勝した。257年、諸葛誕が呉と同盟を結んで反乱を起こしたが、258年に司馬昭が鎮圧した。諸葛誕の反乱は、魏軍26万と諸葛誕・呉軍20万が1年にわたり激突した大戦であった。