清の后妃と西方・南方
その後、雍正帝は議政王大臣会議に権力を制限される事を嫌って、軍事・行政の両方を総攬する皇帝の諮問機関である軍機処を創設して完全なる皇帝独裁体制を整えた。軍機処に権限を奪われた議政王大臣会議は1792年に廃止される。中央には軍機処の他に六部・内務府・宗人府・理藩院・都察院・通政使司・大理寺がある。地方は皇帝直属である省と藩部と満洲族の故地である満洲とに分かれている。
文章博士の地位にあった仁和3年、橘広相が作成した宇多天皇から基経への詔勅にあった「阿衡」の文字に関し、「阿衡には位貴しも、職掌なし」という見解を発して、いわゆる「阿衡の紛議」を引き起こした。基経が没した寛平3年、陸奥守に任じられ、事実上中央政界から排斥された。寛平9年に右大弁に任ぜられ、帰洛の途に着くもその途中に病没したとされる。また一説には、没年は昌泰元年10月27日であるともいう。通憲の家系は曽祖父藤原実範以来代々学者の家系として知られ、祖父の藤原季綱は大学頭であった。ところが、天永3年に父・実兼が蔵人所で急死したため、幼少であった通憲は縁戚であった高階経敏の養子となる。保安3年より中宮権少進・院判官代として藤原璋子に仕えて、天治2年に従五位下に叙せられた。通憲は若かりし頃より藤原家成・平清盛と親交があったとされる。 大治2年、待賢門院が雅仁親王を産むと、通憲の妻藤原朝子は親王の乳母に採用される。その後、待賢門院の推挙で鳥羽上皇に院判官代として仕えた通憲は学問にも励み、当世無双の宏才博覧と称された。その後日向守に任命されるとともに、『法曹類林』の編纂も行っている。
曹叡は239年に早世し、その後を養子の曹芳が継いだ。明帝は死去するに際して司馬懿と皇族の曹爽に曹芳の後見を託した。244年には毌丘倹を派遣して、高句麗の首都を陥落させるなど武威を振るったが、内部では曹爽と司馬懿の対立が起こり、曹爽が司馬懿を排除して専権を振るった。249年、司馬懿はこれに逆襲してクーデターを起こして曹爽一派を逮捕、権力を掌握し、曹芳を傀儡とした。250年、王昶・王基らは呉の荊州を攻め、朱績らに勝利し、30万石の兵糧を奪い、数千人を降伏させた。251年、司馬懿が死去し、子の司馬師が権力を引き継ぎいだ。252年、諸葛誕・胡遵が呉を攻めるが、諸葛恪に大敗した。曹芳は権力奪還を目論むが、事前に発覚して254年に廃位され斉王とされた。その後、曹髦が皇帝に擁立された。255年、毋丘倹が反乱を起こしたが、司馬師が鎮圧した。そして同年、司馬師が死去し、その権力を弟の司馬昭が引き継いだ。さらに同年、王経が蜀の姜維に侵攻され、大敗している。しかし256年には、鄧艾が攻めてきた姜維に大勝した。257年、諸葛誕が呉と同盟を結んで反乱を起こしたが、258年に司馬昭が鎮圧した。諸葛誕の反乱は、魏軍26万と諸葛誕・呉軍20万が1年にわたり激突した大戦であった。当時、司馬昭の権力は強く、曹髦は全くの傀儡であった。260年、曹髦はこれに不満を抱き、側近数百名を引き連れて自殺的なクーデターを試みるが、賈充により殺された。その後に擁立されたのが曹操の孫にあたる曹奐であった。
『三国志演義』第八回から登場。朝廷を牛耳り、洛陽から長安に遷都するなど、暴虐の限りを尽くす董卓を見かねた王允が、董卓誅殺を行う為に当時十六歳とされる養女・貂蝉を使い、董卓の養子の呂布と仲違いさせる計画を立てた。王允はまず呂布に貂蝉を謁見させ、その美貌に惚れさせる。だが、次に王允は呂布とは別に貂蝉を董卓に謁見させ、董卓に貂蝉を渡してしまう。怒った呂布が王允に詰問すると、「董卓には逆らえない」と言い繕い、その場を円く納めた。その後、呂布と貂蝉が度々密会し、貂蝉が呂布のもとにいたいという意思表示をする。2人が密会していることに董卓はいったん怒ったが、腹臣の李儒の進言により貂蝉を呂布の元に送るように言う。だが、一方で貂蝉は董卓にも「乱暴者の呂布の元には行きたくない」と泣きつき、董卓の下を動こうとしない。それに怒った呂布が王允と結託し、董卓を殺害した。これが「美女連環の計」であるを連ねて動けなくするという、文字通りの計略が見られ、それと区別するため「美女連環の計」と言う)。董卓亡き後の貂蝉は呂布の妾となったが子ができなかった。下邳の攻防戦では、陳宮に掎角の勢を進言されこれに従い出陣しようとした呂布を正妻の厳氏ともに引き止めている。下邳陥落後の貂蝉については記述がない。