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江戸時代以前の日本の人々は、しばしば遣唐使を通じて長く交渉を持った唐の国号をもって中国を呼んだ。古語で外国を意味する「から」の音を「唐」の字にあてる例も多い。中国を「唐土」と呼称したり、日本に来航する中国商人は「唐人」と呼ばれ、文語の中国語を「漢文」というのに対して口語の中国語は「唐語」と呼ばれた。また、かつて東南アジアなどの華人も祖国を「唐山」と呼んだ。11世紀頃に中国の北辺を支配したキタイ人の遼王朝から中央アジア方面ではキタイ、カタイという呼称が生まれた。ペルシア語やテュルク語を通じて中国の文物の名前を知ったと見られるマルコ・ポーロは、北中国のことをキタイという名で記録した。ロシアでは現在も中国のことを Китай と呼んでいる。西ヨーロッパにはCathayとして伝わり、キャセイパシフィック航空の社名などに使われているが、Chinaに比べるとあまり広汎に用いられる呼称ではない。前漢は王莽により簒奪されたが、王莽の政治は周代を模して現実からは遊離していたために、国内は混乱し外交でも失敗し、故に外征を行わざる得なくなり、それも失敗し、収拾のつかない状態になった。この状況で、現在の山東省で呂母の乱が勃発したのを皮切りに全国で反乱が起こり、最終的に南陽の皇族傍系の地方豪族である光武帝により平定された。
さらに安史の乱が起こると、吐蕃は安史の乱の混乱に乗じて一時期長安を占拠した。長安からはすぐに撤退したものの甘粛は吐蕃の領域に入り、シルクロードは吐蕃の手に入った。その後の787年には安西・北庭の両都護府が吐蕃に陥落させられ、唐の西域経営は終わる。吐蕃は唐の西方防備を大いに悩ませたが、ウイグルら周辺諸国が次々に唐との共存策に移ったことから唐との紛争を続けられなくなり、822年に唐と和睦した。さらに9世紀には吐蕃も国内の争いから衰退し、天山ウイグル王国や甘州ウイグル、タングートなどの新勢力の勃興を許した。唐の西域経営後退後もこれらによる中継貿易による内陸の東西交易路は維持され、依然として盛況を示した。さらに8世紀以降はインド洋・南シナ海を通じて西アジアの商人と唐の商人が直接取引きする南海交易が次第に盛んになり、数多くのアラブ人やペルシア人のムスリム商人が広州に来航した。隋以来、中国の王朝と敵対関係にあった東の高句麗に対しては、太宗・高宗期に計5回の遠征軍を送るが、全て失敗した。しかし新羅と連合して660年にまず南の百済を滅ぼし、668年には最終的に高句麗を滅ぼすことに成功、平壌に安東都護府を設置する。
この時代に成立したと見られる著者不明の『九章算術』と言う算術書には様々な数学の問題が載っており、後には数学教育のテキストに採用されている。前述したように蔡倫の製紙法改良により、文章の伝達速度が上がったことは文学の世界にも大きな影響を及ぼし、ある所で発表された作品が地方に伝播することで流行が形作られることになる。歴史の分野ではまず班固の『漢書』である。『史記』の紀伝体の形式を受け継ぎつつ、初めての断代史としての正史であるこの書は『史記』と並んで正史の中の双璧として高い評価を受けている。
中国王朝としての元は、北宋崩壊以来の中国統一政権であり、元の北走後は明が中国統治を引き継ぐ。ただし、後述するように、元は制度や政治運営の特徴において、モンゴル帝国に受け継がれた遊牧国家特有の性格が強く、用語上でモンゴル帝国が伝統的な中国王朝の類型に変化したものであるというような誤解を避けるために、遊牧民の国を指すウルスという語を用いて特に大元ウルスと呼ぶべきであるとする意見もある。元は、1260年、チンギス・カンの孫でモンゴル帝国の第5代皇帝に即位したクビライが、1271年にモンゴル帝国の国号を大元と改めたことにより成立し、モンゴル語ではダイオン・イェケ・モンゴル・ウルス すなわち「大元大蒙古国」と称した。つまり、1271年の元の成立は従来のモンゴル帝国の国号「イェケ・モンゴル・ウルス」を改称したに過ぎないとも解せるから、元とはすなわちクビライ以降のモンゴル帝国の皇帝政権のことである。国号である「大元」もこれで一続きの政権の名称として完結したものであったと考えられるが、中国王朝史において唐や宋など王朝の正式の号を一字で呼ぶ原則に倣い、慣例としてこのクビライ家の王朝も単に「元」と略称される。たとえば中国史の観念では元朝とはクビライから遡って改称以前のチンギス・カンに始まる王朝であるとされ、元とはモンゴル帝国の中国王朝としての名称ととらえられることも多い。クビライが皇帝の位につく過程において、兄弟のアリクブケと帝位を争って内戦に至り、これを武力によって打倒して単独の帝位を獲得するという、父祖チンギスの興業以来の混乱を招いた上での即位であった。このため、それまで曲がりなりにもクリルタイによる全会一致をもって選出されていたモンゴル皇帝位継承の慣例が破られ、モンゴル帝国内部の不和・対立が、互いに武力に訴える形で顕在化することになった。特に、大元の国号が採用された前後に中央アジアでオゴデイ家のカイドゥがクビライの宗主権を認めず、チャガタイ家の一部などのクビライの統治に不満を抱くモンゴル王族たちを味方につけてイリからアムダリヤ川方面までを接収し、ペルシア語の歴史書などでは当時「カイドゥの王国」と呼ばれたような自立した勢力を成した。帝国の地理的中央部に出現したその勢力を鎮圧するために、クビライは武力に訴えるべく大軍を幾度か派遣したが、派遣軍自体が離叛する事件がしばしば起きるという事態が続いた。この混乱は西方のジョチ・ウルスやフレグ家のイルハン朝といった帝国内の諸王家の政権を巻き込み、クビライの死後1301年にカイドゥが戦死するまで続いた。かくしてモンゴル皇帝のモンゴル帝国全体に対する統率力は減退して従来の帝国全体の直接統治は不可能になり、モンゴル皇帝の権威の形が大きな変容を遂げ、モンゴル帝国は再編に向かった。すなわち、これ以降のモンゴル帝国は、各地に分立した諸王家の政権がモンゴル皇帝の宗主権を仰ぎながら緩やかな連合体を成す形に変質したのである。こうした経過を経て、大元はモンゴル帝国のうちクビライの子孫である歴代モンゴル皇帝の直接の支配が及ぶ領域に事実上の支配を限定された政権となった。つまり、大元は連合体としてのモンゴル帝国のうち、モンゴル皇帝の軍事的基盤であるモンゴル高原本国と経済的基盤である中国を結びつけた領域を主として支配する、皇帝家たるクビライ家の世襲領となったのである。