主要な訳注本と各巻総覧
元代の青花は中国各地の元代遺跡の考古学調査で発掘される上、中国から海外に輸出される国際商品として使われていたと考えられ、遠くトルコ、イスタンブルのオスマン帝国の宮廷トプカプ宮殿や、イラン、アルダビールのサファヴィー朝の祖廟サフィー廟に大規模なコレクションがある。演芸場所は、建物内のほか、広場、街頭でも行われた。ジャンル別に4つに分けられ、説話四家といわれたが、この4つは人ごとに解釈が異なり不分明である。小説・説経・講史・説諢話・合生・商謎といった形式が含まれる。
しかし家康・信雄連合軍もすぐに反撃に出た。羽黒に布陣していた森長可を破ったのである。さらに小牧に堅陣を敷き、秀吉と対峙した。秀吉は雑賀党に備えてはじめは大坂から動かなかったが、3月21日に大坂から出陣し、3月27日には犬山城に入った。秀吉軍も堅固な陣地を構築し両軍は長期間対峙し合うこととなり戦線は膠着した。このとき、羽柴軍10万、織田・徳川連合軍は3万であったとされる。そのような中、前の敗戦で雪辱に燃える森長可や池田恒興らが、秀吉の甥である三好秀次を総大将に擁して4月6日、三河奇襲作戦を開始した。しかし、奇襲部隊であるにも関わらず、行軍は鈍足だったために家康の張った情報網に引っかかり、4月9日には徳川軍の追尾を受けて逆に奇襲され、池田恒興・池田元助親子と森長可らは戦死してしまった。こうして秀吉は兵力で圧倒的に優位であるにも関わらず、相次ぐ戦況悪化で自ら攻略に乗り出すことを余儀なくされた。秀吉は加賀井重望が守る加賀井城など、信雄方の美濃における諸城を次々と攻略していき、信雄・家康を尾張に封じ込めようと画策してゆく。また、信雄も家康も秀吉の財力・兵力に圧倒されていたことは事実で、11月11日、信雄は家康に無断で秀吉と単独講和した。家康も信雄が講和したことで秀吉と戦うための大義名分が無くなり、三河に撤退することとなった。家康は次男・於義丸を秀吉の養子として差し出し、「羽柴秀康」とし講和した。戦後、秀吉は権大納言に任官されている。
さらに家康は、細川忠興や島津義弘、増田長盛らの屋敷にも頻繁に訪問して、多数派工作を行った。こうした政権運営をめぐって、大老・前田利家や五奉行の石田三成らの反感を買い、慶長4年1月19日、家康に対して三中老の堀尾吉晴らが問罪使として派遣されたが、吉晴らを恫喝して追い返した。しかし、利家らと対立する不利を悟って、2月2日には誓書を交わして和解したが、3月3日に利家は病死した。その後、福島正則や加藤清正らが三成を襲撃する事件が発生し、正則ら武断派と、三成ら文治派による対立が表面化した。家康は武断派諸将を慰撫してその支持を集めるとともに、三成を奉行職から解任して、佐和山城で蟄居させた。9月7日、家康は大坂に入り、三成の大坂屋敷を宿所とした。9月9日に登城して豊臣秀頼に対し、重陽の節句における祝意を述べた。そしてそのまま大坂に居座って、政務を執り続けた。9月12日には三成の兄・石田正澄の大坂屋敷に移り、9月28日には大坂城・西の丸に移り、大坂で政務を執り続けた。
後に李自成との反目から高迎祥の敗死を招くも、黄河流域へ進んだ李自成と袂を分かち長江流域へ攻め込み湖南、江西から四川に侵入して独立勢力を形成した。1637年には明軍の総兵官・左良玉の部隊の攻撃により張献忠の起義軍は大きな損害を受け本人も負傷した。一時は官軍に降り、1638年には湖北省の谷城県の副将となり王家河に駐屯したものの、翌1639年に再度明に対して反旗を掲げ四川省との境界付近を転戦した。1641年に襄陽を破り襄王朱翊銘を殺し、1643年に武昌を拠点として「大西王」を称した。四川に入った張献忠軍は崇禎17年8月9日に成都府を陥落させ、巡撫の龍文光、蜀王朱至澍、その妃らはすべて自決した。張献忠は60万の大軍を称して四川省の大半を制し、8月16日には成都府に拠って大西皇帝を称し、大順に改元して成都を西京とした。