全般・通史と陶磁器
孫権は合肥の戦いなどにあっては攻撃時は自ら陣頭に立ち、退却時には最後まで戦場に残って退却の指揮を執るなど勇猛果敢であったが、それが過ぎて軽率である場合もあり、命を落としかけたことも幾度かあった。また張遼の言によると、武芸においては馬をよく操り、騎射が得意であったという。劉備が益州刺史の劉璋を攻め降して益州を領有すると、孫権は劉備に荊州の長沙・桂陽・零陵の3郡の返還を要求した。しかし、劉備は涼州を手に入れてから荊州の全領地を返すとして履行をさらに延期した。そこで業を煮やした孫権は、長沙・桂陽・零陵を支配するため役人を送り込んだが追い返されたので、呂蒙ら軍隊を派遣し、長沙・桂陽・零陵を奪ってしまった。そこで、劉備も大軍を送り込み、全面戦争に発展しそうになった。だが、曹操が漢中に侵攻したので、劉備は孫権と和解し、長沙・桂陽を孫権に返還し、同盟友好関係が回復した。劉備が益州と荊州の半分を支配して勢力を拡大する中、219年、荊州の守備を任されていた関羽は軍を率いて北上した。孫権はその隙をついて曹操と同盟を結び、呂蒙に荊州を奪わせ、退路を失った関羽を捕らえて処刑した。
第4代和帝は9歳で即位し、皇太后竇氏が垂簾政治を行い、その兄の竇憲らが専権を奮った。その後、和帝は宦官の力を借りて竇憲たちを誅殺する。これが後漢の外戚と宦官の台頭の初めである。その後、第6代安帝の代にも和帝皇后の鄧氏一族粛清があり、第8代順帝の治世が開始するにあたっては皇后ら閻氏一族が宦官によって粛正されるなど、外戚と宦官との間で皇帝の擁立合戦が続く。第11代桓帝の時に、順帝の外戚であった梁冀が滅ぼされて以後は宦官が優勢となり、外戚勢力は一歩後退する。地方権力を代表する豪族・外戚と中央の皇帝の側近である宦官との権力対立は深刻な物となり、豪族側は自らを清流・宦官のことを濁流と呼んで非難し、宦官側は豪族達を党人と呼んで弾圧して回った。
日本ではNHK衛星第2テレビジョンで1995年4月3日から9月29日に日本語吹き替えで放送され、後に再放送された。 また2009年には日本語吹き替えでサンテレビで放送されている。第1部:群雄逐鹿 製作:尤世軍 監督:蔡暁晴、沈好放第2部:赤壁塵戦 製作:張光前 監督:蔡暁晴
北宋期に於ける儒学史を考える上で留意する点が二つある。一つは、道統論に付いてである。朱子によって周敦頤→程兄弟→張載→朱子という道学の流れに位置づけられてはいるが、周敦頤は当時はさほど目立った存在ではなく、程顥は自らの思想を「『天理』のふた文字は自分で独自に考案・会得した。」と述べており、程顥の学が周敦頤から受け継いだものという見方は無理がある。また張載の学は程兄弟とは相違点が多く、これらをひっくるめて道学の流れであるとするのも無理がある。道統論は「朱子学に至る流れ」としてみた場合は十分に意味があることであるが、これをそのまま北宋代の儒学史と見ることには問題が多い。もう一つは王安石の扱いである。王安石は後世の批判者からも賛美者からも「『周礼』を口実として悪政を実行した」と評されることが多く、儒学者としての彼は軽視されがちである。しかし実際には王安石は当時の大学者の一人であり、北宋儒学史に於いて欠くべからざる人物である。まず北宋期に於ける宋学の共通点として、漢唐訓詁学に対する批判から始まるということである。訓詁学は孔子が残した経書をひたすら解釈し、その教えを正確に把握することを目的としている。これに対して宋学では語句の解釈のような「瑣末な」問題には拘らず、この世界を主催する天とは何なのかを追い求めることを重視する。