西暦との対照表と学説と思想
文帝は453年、皇太子劉劭によって殺される。この反乱者たちを倒して即位したのが孝武帝である。孝武帝は貴族勢力の抑制を狙って税制の改革や寒人層の登用などを行う。しかし孝武帝の死後は身内内での血みどろの殺し合いとなり、権力争いが激化した。特に第6代明帝は血族28人を殺害し、家臣も少しでも疑いがあれば殺すなどの暴政を行い、宋の衰退が決定的となった。この中で宋の創始者・劉裕と同じように軍事で功績を挙げて台頭してきたのが蕭道成である。蕭道成は明帝の後を継いだ廃帝昱を殺して順帝を擁立し、この皇帝から禅譲を受けて斉を建国した。蕭道成の後を継いだ第2代武帝は何度か北魏に対しての攻撃をかけるが、これは痛み分けに終わる。しかし武帝死後に後継争いで混乱が起き、最終的に蕭道成の兄の子である蕭鸞が即位するが、この間隙を狙った北魏により山東を含んだ淮河以北を奪われてしまう。
赤烏 238年 - 251年 太元 251年 - 252年 五鳳 254年 - 256年
198年、呂布が攻めて来たので、劉備は曹操に援軍を要請した。曹操は夏侯惇を派遣したが、呂布の部下の高順に撃破され、小沛は陥落し、劉備の妻子は再び捕虜となった。曹操は自ら出陣して劉備軍を回収すると共同して呂布を攻めて、呂布を生け捕りにした。曹操は呂布が将軍として有能なので殺すのを少しためらったが、劉備は呂布がかつて丁原と董卓を殺したことを挙げて曹操を諌めた。これを聞いた呂布は激怒し、劉備に対して「こいつが一番信用できないのだぞ!」と罵倒したが、結局、処刑された。劉備は曹操に連れられて曹操の根拠地で献帝のいる許昌へ入り、左将軍に任命された。ここでの劉備に対する曹操の歓待振りは、車を出す時には常に同じ車を使い、席に座る時には席を同格にすると言う異例のものであった。曹操と歓談していた時に曹操から「天下に英雄といえば、おぬしと予だけだ。袁紹などでは不足よ」と評されている。この頃、宮中では献帝よりの密詔を受けた董承による曹操討伐計画が練られており、劉備はその同志に引き込まれた。その後、討伐計画が実行に移される前に朱霊・路招らと共に袁術討伐に赴き、都から徐州に逃げ出す名分を得たという。やがて袁術が討伐途中で死去したため、そのまま徐州に居残った。
270年、鮮卑の禿髪樹機能が西晋に反乱を起こし、西晋の秦州刺史の胡烈を討ち取った。277年、西晋の文鴦が禿髪樹機能を降伏させた。279年、禿髪樹機能は再び西晋に反乱を起こし、涼州を制圧したが、西晋の馬隆に大敗し、没骨能に殺害された。272年、歩闡が呉に背き、西晋に寝返ったが、呉の陸抗がこの反乱を鎮圧した。279年、西晋の司馬炎は呉に出兵し、280年に呉を滅ぼし、ついに中国統一を実現した。ここをもって三国時代は終わった。