来歴・人物と全般・通史

日本で「中国」という用語が「中国」という主権国家を指す意味で使用され始めたのは、中華民国政府の要求で外交文書の中に登場した1930年からであり、一般的にも使用されるようになったのは第二次世界大戦後のことである。それ以前の時代にこの意味で用いられていた用語は支那もしくは清国であり、さらに古くは唐、唐土などと呼んでいた。当時は「中国」といえば「なかつくに」と読み、これは日本自身に対する美称であった。日本ではまた山陽地方と山陰地方を合わせた地域を中国あるいは中国地方と称する。この呼称は延喜式において令制国を「近国」「中国」「遠国」の3種類に区分したことに由来し、南北朝時代以降に見られる。詳細は中国地方を参照。古代ギリシアでは、中国の商人は「セール」)と呼ばれた。これは彼らがもたらした絹の読みに由来するとされる。古代ギリシアでは絹は「セーリコン」と呼ばれ、英語やロシア語などで「絹」を表す言葉の由来ともなっている。その後、後述する「チーナ」に由来する「スィーン」が伝わるとその系統の呼称に取って代わられた。

更に翌年春、第三次の北伐を決行する。武将の陳式に武都・陰平の両郡を攻撃させた。これに対して魏将郭淮が救援に向かったが、諸葛亮自身が出撃して彼の退路を断とうとしたので撤退した。陳式は無事に武都・陰平の二郡を平定した。この功績により、再び丞相の地位に復帰する。231年春2月、第四次の北伐を行い司馬懿と対戦し、局地的に勝利したが、長雨が続き、食糧輸送が途絶えたことにより撤退する。この撤退の時に追撃してきた魏の張郃を伏兵を用いて射殺している。食糧輸送の一切を監督していた李平は、諸葛亮を呼び戻させる一方、彼が帰還したところで「食料は足りているのになぜ退却したのですか?」と聞き返すなど、自らの失敗をごまかそうとした。しかし諸葛亮は出征前後の手紙を出して李平の嘘を見破り、彼を庶民に落とした。234年春2月、第五次、最後の北伐に出た。この戦いで諸葛亮は屯田を行い、持久戦の構えをとって五丈原で司馬懿と長期に渡って対陣する。しかし、頼りにしていた呉が荊州と合肥方面の戦いにおいて魏に敗れ、司馬懿は大軍を擁しながら防御に徹して諸葛亮の挑発に乗らなかった。病に侵されていた諸葛亮は、秋8月、陣中に没した。享年54。

なお、奥平貞昌の戦功に対する褒美として、家康は、名刀・大般若長光を授けて賞した。そのうえ、翌年には長女・亀姫を正室とさせている。この年、家康は武田氏に奪われていた二俣城を奪還した。天正7年、信長から正室・築山殿と嫡男・松平信康に対して武田氏への内通疑惑がかけられた。家康は酒井忠次を使者として信長と談判させたが、信長からの詰問を忠次は概ね認めたために信康の切腹が通達された。家康は熟慮の末、信長との同盟関係維持を優先し、築山殿を殺害し、信康を切腹させた。この事件は信長が自身の嫡男・織田信忠より優れた資質をもつ信康に危機感を覚えたため等諸説あるが、近年では、家康・信康父子が対立したためで信長には了承を求めただけという説も強くなってきている。

費禕の死後、姜維や陳祗らが国政を執ったが、255年に北伐で魏に大勝したものの、256年の段谷の戦いの敗戦や相次ぐ北伐で蜀は疲弊した。258年に宦官の黄皓が政治権力を握り、黄皓を重用した劉禅の悪政により、宮中は乱れ国力は大いに衰退した。そして263年、終に魏の司馬昭が蜀討伐を命令。姜維らは剣閣で魏軍に抵抗したが、対峙している間に別働隊が迂回して蜀の地へ進入、綿竹で呉の援軍が到着する前に諸葛瞻が討ち取られた。この知らせを聞いた劉禅は魏軍が成都に迫る前に降伏、蜀は三国の中で最も早く滅亡した。その後、成都で起こった反乱で皇太子の劉璿が殺害されるなどの混乱があったものの、劉禅は魏・晋両国で「安楽公」に封じられて天寿を全うした。陳寿によれば、蜀は歴史を編纂する役人を置いておらず、魏や呉に比べ蜀の歴史は後世にあまり伝わらなかったようである。

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