関連文献と小規模自作農

新分野への挑戦にも意欲的であり、番長漫画が流行した当時には、自らも『あばれ天童』を描いている。その単行本の前書きにおいては「新人になったつもりで描いた」とコメントしている。大きなヒットにはならなかったが、ちばてつやに代表される「スポーツ系番長もの」と、本宮ひろ志に代表される「ヤクザ系番長もの」の両者の特徴をそつなく取り入れた作品と評されている。また辻真先の原作つきの作品ではあるが、『戦国獅子伝』においては、SMなどかなりハードなアダルト表現にも挑戦している。どちらかと言えば自分の方向性・可能性のために、時には読者が戸惑うような大胆な創作を行った芸術家肌の手塚に対し、あくまで読者を楽しませるためにさまざまな物語を紡ぎ出した横山は、職人肌であったという見方がある。手塚治虫は「かれの作品は、計算の上にサービス精神を横溢させている」と評している。漫画家のゆうきまさみはコラム『はてしない物語』などで「コマとコマの間を読ませるという意味で、横山氏の右に出る者はいない」と語っている。漫画家には自作品の映像化に関して原作からの逸脱を嫌う者が多い。だが、数多い漫画家の中にあって比較的早くから大御所的存在であったにもかかわらず、横山はその点については現実的かつ寛容であった。白土三平が『ワタリ』のテレビ化に拒否反応を示したため、代替企画の原作者として白羽の矢が立てられ、『飛騨の赤影』の連載を開始した逸話は、この事をよく示している。

東晋の武将桓温が347年に蜀の成漢を滅ぼし入蜀を果たした際、諸葛亮が生きていたときに小吏を勤めていたという百歳をこえる老人に対し、桓温が「諸葛丞相今與誰比?」と問うた所、「諸葛在時、亦不覚異。自公没後、不見其比。」と答えたという。なお、桓温は簡文帝臨終の際に禅譲を考えていたことから簡文帝に「諸葛亮や王導のように皇太子を補佐してほしい」と遺詔された。小説『三国志演義』の中で、その名前を字で記載されているのは玄徳と孔明のみである。『初学記』巻二十五に引く『語林』では、諸葛亮が白い輿に乗り、葛巾をかぶり羽扇を手に軍を指揮したと描写されているが、『三国志演義』ではさらにイメージがふくらまされ、綸巾を戴き羽扇を手にして四輪車に乗り、鬼神や天候をも操り、敵の意図を全て事前に察知し、天文をもって人の生き死にを知る事が出来るといったほぼ完璧な人物として描写されている。この描写については批判もあり、魯迅などは「人物描写に至ってはすこぶる欠点がある。劉備を温厚な人格者として表現しようとしてむしろ偽善者じみているし、諸葛亮を知恵者として表現しようとしてむしろ化け物じみてしまっている。」と述べている。

一方このころ、モンゴル高原では西モンゴルのオイラトが力をつけ、モンゴルを制圧したオイラト族長エセン・ハーンは明へ侵攻してきた。1449年、英宗は側近の宦官王振の薦めでオイラトに親征を行ったが、自ら捕虜となる大敗を喫した。エセン・ハーンは内紛で殺され危機を免れたが、後に帰還して奪門の変で復位した英宗以来、歴代の皇帝は紫禁城から出ることを好まず、また政治を顧みない皇帝も多く、国勢はしだいに低調となった。16世紀に入ると倭寇が中国人の密貿易商人と結びついて活動を始め、沿岸部を脅かすようになった。さらにモンゴルではクビライの子孫とされるダヤン・ハーンが即位し、オイラトに対抗してモンゴルの再統一を成し遂げた。オルドス地方に分封されたダヤン・ハーンの孫アルタン・ハーンは16世紀中ごろに頻繁に中国に侵入し、1550年には北京を攻囲した。

北京に入城した李自成たちはここでいよいよ全中国の皇帝となるための諸手続きや儀式の用意を始めた。入城後の李自成軍は殺人鬼として有名な張献忠の軍が合流したこともあり、厳正であった軍規もすっかり緩み、略奪・強姦・殺人が横行していた。その頃、東北地方では満州族に対して前線の拠点である山海関を守っていた呉三桂が清に対して投降していた。その後、李自成軍はドルゴンと呉三桂率いる清と明の遺臣の連合軍と激突し、大敗。慌てて北京を逃げ出した。実に入城から40日と言う短い天下であった。さらに李巌と牛金星の確執から牛金星が李巌を殺害して清軍に投降してしまう。その後西安に逃れた李自成軍だが、ここもすぐに放棄して通城に逃れるが、李自成は九宮山にて現地の農民の自警団により殺される。ただし、僧侶に変装して1674年まで生き延びたと言う伝説もある。清は北京に入った後は崇禎帝の葬儀を手厚く営み、李自成によって殺された崇禎帝の仇を取るとの名目を持って自らの中国支配を正当化した。このために清代を通じて李自成は反逆者とされ、清滅亡後もしばらくは流賊の頭とみる低い評価が続いたが、1944年に郭沫若が李自成を起義軍として再評価する論を唱え、当初は流賊説を取っていた毛沢東がこれを承けて李自成を農民反乱指導者として評価する見解を出したことから、李自成の再評価と「大順」王朝の研究が進められるようになった。

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