ギャラリーと劉備時代

清朝はすでに満洲時代にモンゴルの諸部族を併合し、朝鮮に朝貢させており、清軍が華南に進むにつれて琉球、マカオのポルトガル人、ベトナムが朝貢してきた。また呉三桂が南明の永暦帝を追って雲南からビルマに入った。しかし三藩の乱や台湾鄭氏政権の抵抗のため、海上からの朝貢は鄭氏が投降するまで本格的に始まらなかった。その後、広州などを開放して東南アジア諸国や英仏などの交易を許した。特にタイのアユタヤ王朝は清朝の要請を受けて、タイ米を広東や福建に輸出した。清朝は明朝と違い、厳格な海禁政策は取らなかった。日本の江戸幕府は朝貢してこなかったので外交関係はなかったが、中国商船の長崎貿易は許されていた。欧州との関係についていえば、マカオ経由で入国したイエズス会員らカトリック宣教師が明末以来引き続き北京に滞在し、主に科学技術や芸術技能をもって朝廷に仕えていた。北辺ではシベリアに進出したロシアが満州北部に迫り、ネルチンスク条約やキャフタ条約によって中露国境が定められた。19世紀に入ると産業革命が進む欧米と中国との力関係が逆転し、特にナポレオン戦争後の世界の覇権を握ったイギリスを中心として中国侵略が開始され、後発のロシアや日本もこれに加わった。その結果、アヘン戦争、第2次アヘン戦争によって不平等条約を結ばされ、外国商品の流入によって勃興しつつあった工場制手工業に大きな被害をうけた。

『百川書志』文中の評にはいわく、「正史に根拠を置きつつ俗伝で装飾し、史文を考証しながらも大衆の好みに通じ、低俗とならず虚構とならず、それでいて読みやすく入りやすく、史家の伝統的古文によるものではないが、盲目的な叙述や面白おかしく書き立てる態度からは離れ、百年間を叙述して、おおむね全ての出来事を包括している。」とある。本書は中国の小説では珍しく、知識人の読み物としても認められた存在であり、しばしば蔵書目録に『水滸伝』とならんで掲載されていることが指摘されている。吉川幸次郎は、『三国志演義』は明・清の中国において、もっとも広く読まれた書物だろうと推測している。本書の書名は清代より『三国志演義』『三国演義』などと呼ばれ、一致を見なかった。民国期の小説研究では、魯迅『中国小説史略』、胡適『白話文学史』が全て『三国志演義』という名称を用いたが、新中国成立後は『三国演義』に統一された。現在の中国では全て『三国演義』と呼称されている。また、嘉靖本の版本名から『三国志通俗演義』という名称が用いられることもある。

さらに安史の乱が起こると、吐蕃は安史の乱の混乱に乗じて一時期長安を占拠した。長安からはすぐに撤退したものの甘粛は吐蕃の領域に入り、シルクロードは吐蕃の手に入った。その後の787年には安西・北庭の両都護府が吐蕃に陥落させられ、唐の西域経営は終わる。吐蕃は唐の西方防備を大いに悩ませたが、ウイグルら周辺諸国が次々に唐との共存策に移ったことから唐との紛争を続けられなくなり、822年に唐と和睦した。さらに9世紀には吐蕃も国内の争いから衰退し、天山ウイグル王国や甘州ウイグル、タングートなどの新勢力の勃興を許した。唐の西域経営後退後もこれらによる中継貿易による内陸の東西交易路は維持され、依然として盛況を示した。さらに8世紀以降はインド洋・南シナ海を通じて西アジアの商人と唐の商人が直接取引きする南海交易が次第に盛んになり、数多くのアラブ人やペルシア人のムスリム商人が広州に来航した。隋以来、中国の王朝と敵対関係にあった東の高句麗に対しては、太宗・高宗期に計5回の遠征軍を送るが、全て失敗した。しかし新羅と連合して660年にまず南の百済を滅ぼし、668年には最終的に高句麗を滅ぼすことに成功、平壌に安東都護府を設置する。

しばらく作品を発表しなかった時期の後、『幽情記』『運命』を発表、大好評を博して文壇に復活する。これらは中国の古典を踏まえた作品であり、これ以降も中国から素材をとった作品を多く発表している。昭和12年4月28日には第1回文化勲章を授与され、帝国芸術院会員となる。昭和22年7月30日、戦後移り住んだ千葉県市川市において、81歳で没。墓所は池上本門寺。戒名は、露伴居士。露伴は幸田成延、猷夫妻の四男である。長兄の成常は実業家で相模紡績社長などを務めた。次兄の成忠は海軍軍人、探検家で、郡司家へ養子に出された。弟は歴史家の成友で、妹の延、幸はともにヴァイオリニストである。

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